とりあえず、道徳の時間にテレビ観るのをやめようか?





今回の話題は、今、巷を騒がせている 『いじめ』 の問題についてです。


はっきり言って、重いです。『記憶力絵心クイズ』 が懐かしくなるような、重さです。つれあいの描いたアライグマでさえ(笑)、恋しくなるようなヘビーな問題です。
でも、避けて通るのもどうかと思い、とりあえず月下の思うところなど、書いてみることにしました。


息子の通う小学校でも、各クラスでいじめについての話し合いが持たれ、全校集会が開かれたのだそうです。”まぁ、こんな御時世だからな、何かしないとな・・・・” という、大人の都合がひしひしと伝わってきます。


まず問題になるのは、『うちの学校には、いじめがあるのか?』 ということ。私に言わせれば、そんなことを話し合いの冒頭に持ち出したこと自体が、すでにアウトです。


いじめなんて、あるに決まってるじゃないですか、そんなもん。訊くだけ野暮ってもんです。学校側にすれば、ないと思いたいのでしょう。知らぬが仏。臭いものにはフタ。うちの学校にいじめはありません。明るく素直な子供達ばかりで、みんな楽しく学校生活を送っています・・・・でもそんなもの、大人にとってだけ都合の良い、ただの幻想にすぎません。


いじめはあります。おそらくどこの学校にも。程度の差こそあれ、必ずあると言って良いでしょう。表面化していないから、存在しないということでは、決してないのです。


本当に、いじめの問題に取り組もうという気があるのなら、まずは現場の教育者が、そして私達大人が、きちんとその現実に向き合うことが、第一歩なのではないでしょうか。うちの学校に限って、うちの子に限って・・・・いつまでそんな思いに、しがみついているつもりです?


じゃぁ、そのいじめに、どうやって対処しましょうか?という話になりますが・・・・


「いじめがあります。どうするんですか?」・・・・って、そんなこと子供に訊いてどうするんですか?そんなのは、大人が考える事です。大人が作った社会で、子供は生きているのです。大人が作った社会で起きている問題には、まず大人が取り組むのです。たとえその当事者が子供であったとしても、です。当然の事ですが、いじめは子供の喧嘩ではありません。いじめは社会問題です。子供の仕業ですから、みたいな顔してちゃ、だめです。


あ、そこの。事なかれ主義の校長先生。聞いてますか?ハナクソほじくってないで、ちゃんと聞くように。


・・・・先に進みます。


そうなると、「じゃぁ、具体的にどうしたらいいんですか?大人は何をしたらいいんですか?」ってことになるわけですが、そんなこと知らないよっ!!月下に訊くなよっ!そんなことにスラスラ答えられるくらいなら、次の文科大臣は月下だよっ!!


ヾ(ー ー )ォィォィ…


しかし。ただ1つ言える事があります。それは・・・・


子供達に、いつか彼らがこの社会を支える立場になった時、彼らが為すべきこと、あるいは、してはならないことについて、教えなくてはならないのは大人である私達だということです。


なぜ、人をいじめてはいけないのか?
なぜ、人を傷付けてはいけないのか?
なぜ、自殺してはいけないのか?
なぜ、人を殺めてはいけないのか?


なぜ?どうして?・・・・


「そんなの、当たり前のことじゃないか・・・・」と思われるかもしれませんが、それは、人生経験を積んできた大人達にとって当たり前の事なのであって、生まれて10年にも満たない子供達にとっては、必ずしも当たり前のことではないかもしれないのです。


だから、大人が、子供に、教えるのです。あるいは、確認をする、でもいい。
そして、時には一緒になって考えるのです。


決して、手を抜くことなく。
決して、諦めることなく。
決して、投げ出すことなく。


何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。・・・・そう、何度でも。


たとえ何の答えも出なくても、たとえすぐには解決しなくても、根気よく続けること。大人が自分の口で、生きた言葉で、子供達に話すということ。人として生きるうえで大切な事について、語るということ。それが、大人の責任というものではないでしょうか。


・・・・しかし、今の大人たちには、それが出来ません。


戦後60年が経ち、今や私達の身の回りはあらゆる物質で溢れかえっています。私達は、手に入れたお金をモノに換えることばかりに執心してきたあまり、お金では買えないものの大切さ、お金以外の方法で問題を解決する術を見失ってはいないでしょうか?そして、それでもお金があればどうにかなりそうな社会で私達は生きています。


だから、私達の心は貧しく、未熟です。


心が貧しく未熟な私達が、子供達の中に豊かな心を育てるなどということが出来よう筈もありません。まぁ、ない袖は振れないわけで、当然といえば当然です。子供達に、金品を与える事は出来ても、子供達に、人として生きるうえで本当に大切な事について話して聞かせることが、出来ないのです。


・・・・そんな大人達が、私達が今、社会を支えています。どーもすみません。


だから、道徳の時間といえば、くだらない教育テレビを観せてお茶を濁し、事が起きれば教師が悪いの、家庭がいけないのと、責任のなすりあい。子供達は、簡単に他人を痛めつけ、簡単に生きることを放棄し、たいした考えもなくそれを扱うマスメディアによって、その連鎖は拡大していく・・・・。
これが、いじめという観点から見た今の社会の現状ではないかと、月下は思います。


しかし。


私達はそういう社会の風潮の中で育ってきました。豊富な物質によって、支えられた生活・・・・それは、私達が望むと望まざるとに関わらずです。だから、今の社会を支える大人達に、すべての責任があるとも言い切れません。


そんなふうにして、いじめという現象の、その根源まで辿って行こうとすれば、おそらく、さらに長い時間を遡らなくてはならないのでしょう。あるいは、どこまで遡ってみても辿り着けないところに、その根源はあるのかもしれません。
そのように、原因や、発生のプロセスがはっきりしない以上、いじめに解決策などないのかもしれません。そして、いじめが根絶することもないのかもしれません。


要は、それほどに、いじめというのは、複雑で根深い問題であるという事を、忘れていけないということです。それは、一朝一夕にどうにかなるような、そんな簡単な話ではなく、何かしら条例を定めたり、法律を作ったりしたところで、単に急場を凌いだだけに過ぎず、本当の意味での解決にはならないと思うのです。


しかし、だからと言って、手をこまねいてみていても良いということにはなりません。いや、だからこそ、私達は子供達に、語り続けなくてはならないのだと思うのです。


人が人として生きるうえで、してはならないことについて。
人が人として生きるうえで、しなくてはならないことについて。
人が人として生きるうえで、本当に大切な事について。


いじめは、制度の問題でも、規則の問題でもなく、心の問題です。心の問題だからこそ、何かを変えていこうとしたら、気が遠くなるような長い長い時間が必要かもしれません。しかし、そんな草の根を分けて進むような地道な作業を、絶え間なく続けていくということが大切なのではないでしょうか。そんなふうに、月下は思います。


さて。


息子の個人面談に行った時にですね、先生に、「月下さんは、いじめの問題をどのように見ておられますか?」と訊かれたんですね。「それは私がPTAの役員だから、ですか?」と伺ったら、「いえ、個人的な興味です。」と言われ(笑)、それならば・・・・と、訊かれるままに話したわけで、その内容を元に、このエッセイを書きました。
・・・・それにしても、学校の先生が、月下の話なんか真面目な顔して聞いてるようでは、世も末ですな(笑)。


当然のことながら、月下が書いたことは、答えでもなんでもありません。正しいのかどうかも、かなりアヤシイです。そのうえ、矛盾点もあるかもしれません。・・・・グダグダです(笑)。ただ、この 『いじめ』 という複雑で根深い問題の、ある一面を切り取ってみようという試みではあります。


この問題、みなさんはどう思われますか?


ちなみにその個人面談で、「息子さんは、身の回りの整理整頓をもう少しきちんとしましょう」・・・・と、言われました。 ( ̄∇ ̄;) あはは…