暗闇の袖に、触れる。





漆黒の闇という言葉がある。漆黒。漆の色のような、深い闇。


昨今、漆黒の闇というのには滅多にお目にかかれない。夜でも明かりが灯され、遠くのネオンが夜空を照らして、暗いけど・・・・薄明るい。


しかし先日、私は本当の暗闇に・・・・そう、正真正銘の暗闇に遭遇した。その時の話をしようと思う。


私は、やんごとない事情で、夜9時ごろ、家から車で20分ほどのところにある公園に向かった。海に面した小高い山の地形をそのまま利用して作られた、かなり広い公園だ。鬱蒼とした林の中には遊歩道が整備され、その脇を小川が流れている。


駐車場に車を停めた。
遊歩道の入り口が、真っ暗な口をぽっかりと開けている。その日は、これまたやんごとない理由で、公園内の街灯が消されていたのだ。謀られたとしか思えない。どう考えても、夜行性でない生物が足を踏み入れてよい暗さではないように思われる。
・・・・しかし、月下に選択の余地はない。


山の傾斜に沿って、鬱蒼と茂った林の中を下っていく遊歩道は、巨大な生物の体内へと進んでいくようでもある。その暗さと言ったら想像以上だ。足元はおろか、顔の前に広げた指の先すら、見えない。自分は、目が見えなくなったのではないか?と、不安になるくらい、暗い。


暗闇の中では、距離感や、方向感覚や、時間の感覚さえもが麻痺するのだということを、初めて知った。そして、圧倒的に敏感になるのは聴覚。ほんのかすかな音が、異様に大きく聞こえる。樹々のざわめきも、小川のせせらぎも、時折聞こえる・・・・あれはたぶん鯉か何かだろう・・・・魚の飛び跳ねる水音も、昼間のそれとは、比べ物にならない。


手探りのような状態で、どのくらい歩いただろうか?足元に気を取られているうちに、私は、正しい道を外れてしまったらしい。”もしかして私、迷子です?” ・・・・その事実に気付いた瞬間、本当の恐怖が襲ってきた。「お化けが出たらどうしよう?」なんていう、2次的な恐怖ではない。
それはなんというか・・・・暗闇そのものに対する恐怖。


暗闇が、単なる明度の低さではなく、意思を持ち、実体を伴った何かであるような気がしてくる。その何ものかの中に取り込まれるような、言い様のない閉塞感。そしてそれが、じわじわと体の中に染み込んでくるような感覚。侵食。


しかし、怖いと思う一方で、その完全な暗闇は、ひどく心地良くもあった。自分という実体が薄れ、それと引き換えに、眠っていた感覚が覚醒していくようだ。実体のない、感覚と思考だけの、自分。余計なものが一切削ぎ落とされたような、奇妙な身軽さがある。
そして、なぜか無性に懐かしい。この懐かしさは、一体どこからやってくるのだろう?


たとえば。


高ければ、落ちて死ぬという恐怖がある。狭ければ、押し潰されて死ぬかもしれない。しかし、暗いというのはどうだろう? ”暗闇の中に何かが潜んでいるかもしれない” と思うからこそ、暗闇を恐ろしいと感じる。つまり、怖いのは ”暗闇に潜んでいるかもしれない何か” であって、暗闇そのものではない。


そんなふうに、具体的な危険がないにも関わらず、それでも人が暗闇に対して恐怖を抱くとすれば、その理由は何だろう?


それはきっと、遥か昔、自分がそこからやって来て、そして、いつかそこへ帰っていくことを、知っているからではないだろうか?その暗闇は、母の胎内の暗さであり、死して還るべき場所の暗さなのだ、たぶん。


つまり、暗闇というものが、生と死のイメージに直結しているからこそ、人は、その暗闇に対して畏怖の念を抱く・・・・そう、それは ”恐怖” というよりも、”畏れ” なのかもしれない。


気が付くと、私は、暗闇の中で立ち尽くしていた。どのくらいの時間が経ったのだろう?もう少し、そうしていたいと思ったけれど、それは、危険なことのようだった。月下の、動物としての本能が、これ以上ここにいてはいけないと、警告している。


やんごとない事情など、もはやどうでもよくなった。


私は踵を返し、もと来た道をゆっくりと引き返した。相変わらず真っ暗な中を、そろりそろりと歩きながら、私は暗闇の袖に触れたのだと思った。上手く言えないのだけれど、そんなふうに感じた。もうしばらく、畏れもなくあの場所にいたら、袖に触れただけでは済まなかったかもしれない。闇の懐に還るには、まだずいぶんと早すぎる。


突如前方が開けて、駐車場を照らすオレンジ色の街灯が、視界に飛び込んできた。眩しさに、思わず目を細める。私は、地の底へ降りていくかのような遊歩道をもう一度振り返ってから、駐車場までの坂道を、一気に駆け上がった。