裁縫箱の憂鬱。





月下の場合、家事に関していえば、料理は結構好きだし、掃除だって、アイロンがけだって、洗濯だって別に苦にならない。どうかすれば簡単な日曜大工くらいはやっちゃうし、時計だって直しちゃう。わりとおりこうさんなのだ。




しかし、である。圧倒的に、絶対的に、盲目的に、出来ないことがひとつある。


はい、私はお裁縫ができません。
全然ダメです。まったくダメです。お話になりません。ごめんなさい。


謝られても困るだろうけど、なにしろダメなのである。
針と糸でちくちくやるのもダメだし、ミシンも使えないし、ついでと言ってはナンだが編物なんて笑っちゃうし、刺繍なんて奇跡の技だと思っている。いやいや、編物だの刺繍だの、そんな贅沢は言わない。滅相もない。しかし、せめてズボンの裾上げくらい、せめてボタンつけくらいは不自由なく出来たら、どんなにか便利だろう・・・・・と、切実に思っている。





思い返せば、あれは中学生の頃。


家庭科の時間にスカートを作った。シンプルなタイトスカート。でも、私の作ったタイトスカートには、ギャザーが寄っていた。ちょっとギャザーが寄っちゃいました、くらいのものではない。ベル薔薇の衣装顔負けの膨らみっぷりである。どー見てもおかしい。へんだ。ギャザーの寄ったタイトスカート。全然タイトじゃないじゃん。まぁ、いいや。先生に見せるだけだもん。他の人に見せるわけじゃないし。


・・・・と、思いきや。


数日後、全員の作品が文化展に出展された。
展示会場を恐る恐る覗くと、こともあろうに、タイトスカートが1枚1枚画鋲で壁に貼ってある。その中に、ちょうちんみたいな、不思議な格好をした物体が、それも丁寧に広げられて、貼られている。


・・・・なんてこった。




そして、高校時代。


今度のお題は ”子供用の浴衣”。
もうこれは無理。どう考えても、無理。あり得ない。ちょうちんみたいなタイトスカートを作った女だ。浴衣を作るなど、とんでもない話。結果は火を見るより明らかだ。
私は各自に配られた布を家に持って帰ると、月下ママに懇願する。

「浴衣、作ってたもれ。」

月下ママはお裁縫がとても上手だ。たぶん、私は彼女の本当の子供ではない。いやいや、この際、浴衣さえ作ってくれるなら、『月下は橋の下で拾ってきたんだよ』 と、少々ショッキングな告白をされたとしても、『うんわかった』 と言って聞き流そう。状況はそのくらい切羽詰っている。浴衣なんて、月下には絶対に縫えるわけがない。

「うん、いいよ。」

ふうぅ・・・思いの外の快諾に、安堵の溜息である。月下ママに任せておけば、完璧だ。この勝負は頂きだっ!!


さて、提出日。


今度ばかりは自信満々だ。なにしろ私が作ったのではないのだから。しかし、程なくして月下ママ作の浴衣は先生から返されてしまった。

「縫い方が雑すぎますね。もう一度縫い直していらっしゃい。」

「そんな馬鹿なぁ!!だって、私が縫ったんじゃないんだよ!!月下ママが作ったんだよ!!」

という一言が、喉元までせり上がって来るのを、ぐっと飲み込んで、件の浴衣を広げてみると、確かにきたない。縫い目なんてガタガタだ。はっきり言って、ヒドイもんだ。


鼻息も荒く家に帰ると、すぐさま月下ママに抗議する。


「もぉ〜〜!!先生に”縫い方が雑です”って言われちゃったよぉっ!!!」

「あら、月下が縫ったっぽくしてみたのに。」


あのねぇ、へんな気の使い方してくれて、どうもありがとう。でもね、それってすごく余計なお世話だったみたいなのよね・・・・とは、言わない。ただひたすらお願いし、懇願し、ダダをこね、これからはおりこうさんにしますと、ワケのわからない誓約まで口にして、ようやく縫いなおしてもらう。


こうして、月下ママが作った、今度こそ素晴らしく出来の良い浴衣を再提出した。


「あら、今回は綺麗に仕上がりましたね。誰に縫って頂いたのかしら。」

「(オマエって、ほんとにイヤな教師だよな・・・・)おほほほ、先生ったら御冗談が過ぎますわ。」




さて。ここまでくると、いくら私がお馬鹿さんでもいい加減悟るのである。

『私って、ちょっとお裁縫が苦手みたいね。(* ̄ー ̄)v うふ♪』 

ちょっと苦手どころの話じゃない。おそろしく出来ないじゃないか。
しかし、当時の私には、ひとつの思惑があった。『高校卒業しちゃえば、家庭科の授業ともサヨナラでしょ。もうお裁縫なんてしなくて済むもんねー。』


しかし、この思惑が裏切られることになるのを知るのは、それからおよそ10年後のことである。


結婚して子供が生まれ、保育園や小学校に通うようになると、体操服袋だ、上履き袋だ、弁当袋だ・・・・と、裁縫箱の出場回数がやたらと増えるのだ。私はそのたびに月下ママに頼み、姑に頼み、友達に頼み、やれぶきっちょだの、憐れだの、不憫だのと、言いたい放題言われる屈辱の日々である。


しょうがないじゃないか。出来ないんだもん。出来れば自分でやってるさ。




人間には ”出来ること” と ”出来ないこと” というのが厳然と存在するのだ。それは理由や説明をまったく受け付けない、絶対的なものなのだ。努力でどうにかなるものでもない。その欠落した能力を突き付けられる時、苛立たしい現実の前で、しかし私達は無力な小動物でしかない。


そんなわけで、私は、誰かが何かを出来ない、ということについて、わりと寛容だ。トランプのカードがうまくきれない人や、薬指と中指だけを離してぱーができない人や、早口言葉がナマムギナマモメナマナマモになっちゃう人が大好きだ。


不完全であるが故、人間は愛しい。