おんぼろ車に接吻を。
うちのつれあいは、超おんぼろのイタリア車に乗っている。
6年前に中古で買った。古くて、故障ばかりしている。修理代を考えたら、新しい車を買った方が絶対に安いのに、決して手放そうとしない。その車がしょっちゅう修理工場に入院しているので、友達から廃車寸前の車をもらい、普段はそれを乗っている。わけがわからん。
つれあいのしていることは、とても馬鹿馬鹿しいことではある。もっと合理的でもっと経済的な方法があるはずだ。つまり、車を買い換えればいい。それだけのことだ。簡単なことだ。
しかし、である。
気に入ったものが壊れたら、直す。直して使い続ける。愛着を持って大切にする。時としてそれは、不必要なコストを生み出すことにもなるが、しかし、そういう姿勢は、人として真っ当ではあると思う。
そして何よりも、つれあいがその車を大切にしている以上、それは彼にとって、ただの ”おんぼろ車” ではないのだ。たとえ、100人の人が、”おんぼろ車だ!!” と言って指差したとしても・・・・である(ちなみに、月下はその100人の中にばっちり入っている)。
つまり、自分にとって価値のあるものを、知っているか否か?ということなのだ。使い古した言葉ではあるが 『価値観』 というのは、そういうことなんだと思う。
そして、自分にとって価値があるものには、手間もかけ、時間もかけ、できればちょっとお金もかけて、大切にしたいと思う。そんなふうにして、長く付き合えたらいいと思う。
ちなみに。
私とつれあいとでは、価値観はずいぶん違うように思う。私にとって、あのおんぼろ車は、どこまでいってもおんぼろ車でしかない。それは動かし難い事実だ。
「結婚するなら価値観が同じ人がいい」 なんてことをよく聞く。そりゃぁ、そうかもしれない。価値観が同じだったら、何をするにも楽に決まっている。しかし、そんな人って滅多にいないのではなかろうか?
だから、月下は思う。
価値観なんて、違っていていいのだ。それで当たり前なのだ。大切なのは、自分と同じ価値観を持ち合わせた人に出逢うことではなくて、相手の価値観を理解しようとする、その努力であり、次第に分かり合えるようになる、その道程なのだ・・・・と。
おんぼろ車にかかった修理代の請求書を握り締めて、月下はいつもそんなふうに思いながら、深い溜息をつく。「価値観の相違が原因です」・・・そう言って離婚する人がいるのも、まぁしょうがないのかなぁ〜・・・とも思う瞬間である。
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