遥か異国の地で、月下が教えられたこと。





前回、前々回と2度に渡って歯医者の話をしましたが、これが最後。今回は、医療ボランティア編。


月下の海外旅行経験はたった一度だけ。もう10年も前のことだ。それも、医療ボランティアのスタッフに借り出されただけのことで、こういうのは旅行とは言わない。つれあいがボランティアドクターとして参加することになったため、月下も半ば強引に連れて行かれたのだ。


行き先はフィリピン。海外からの医療ボランティアが必要なくらいだから、おしゃれな先進国とか、美しいリゾートとは縁遠い旅で、マニラ郊外のスラムのような街や、離島などの無歯科医地区や、そんなところばかりを巡った。普通の日本人は、絶対に近寄らない場所ばかりだ。そんなわけで、常に2名のセキュリティポリスが同行してくれたが、SP付きだなんて、物騒な旅にもほどがある。


医療ボランティアの一行は、行く先々で現地の人たちに歯科治療を施した。もちろん無償だ。治療の内容は、そのほとんどが抜歯。アフターケアができないので、とにかく抜くしかないのだ。中には、「全部の歯を抜いてくれ」というツワモノもいた。歯がなければ、歯医者にかからなくてすむからだ。ある意味、素晴らしい発想だが、もちろんそんなことは出来ない。丁重にお断りした。


もちろん、医療設備などあるはずもない。教会や、小学校の教室といった場所に椅子を並べ、懐中電灯で口腔内を照らして行う。外には、治療を待つ人達が、長蛇の列をなしている。その人数、ざっと300人か、400人か。


おびただしい数の抜去歯。
おびただしい量の血液。
汚水で満たされたバケツ。
消毒待ちの器具の山。
先を争って飛び交う怒声。
踏み砕かれた麻酔薬のアンプル。
聞き取れないフィリピン訛りの英語。
水の出ない水道。
むせ返るような暑さ。


それはまるで、野戦病院さながらの光景だった。
戦争のような診療が終わると、疲れ果てて無言のまま片付けを済ませる。それからワゴンに乗り込んでホテルへ帰り、泥のように眠った。夜が明けると、チェックアウトして次の街へ移動する。そして再び診療だ。そんなことが1週間続いた。


これが、月下の初めての海外経験であり、そして、私が歯医者の女房になってわずか1ヵ月後の出来事だった。衝撃的な洗礼である。


その1年後、私たちは診療所を開いた。小さいが、明るくて、清潔な診療所だ。毎日たくさんの患者さんが来てくれる。スタッフも元気に働いている。悪くない。


しかし、診療所の状態が良くなればなるほど、私はあのフィリピンでの1週間を思い出す。しんどい旅行だった。肉体的にもしんどかったが、精神的にもきつかった。しかし、リゾートに100回行くより、貴重な体験だったとも思う。


スラム街のはずれに建つ薄暗い教会で、文字通り血みどろになって動き回りながら、いつ尽きるとも知れない患者さんたちの列を前に、私は心の底から思ったのだ・・・・『我、驕り高ぶる事なかれ』と。


なぜ、そんなふうに思ったものか、今となっては分からない。しかし、その思いは、あまりにもくっきりと、私の意識の中に刻み付けられ、以来ずっと、私の中に居座り続けている。


誰かが優れているわけでも、誰かが劣っているわけでもない。誰かが尊いわけでも、誰かが卑しいわけでもない。ただ、必要とする者がいて、与える者がいるというだけのことだ。そこに、人としての優劣は存在しない。そして、私はただ、今、自分に出来ることをするというだけのことだ。


フィリピンは、暑かった(じっとしてても汗が出る)。水道水は、ヤバくて絶対に飲めなかった(同行したスタッフが2名、下痢で動けなくなった)。氷の入ったジュースもヤバかった(氷は、溶ければ水だ)。水族館でしか見たことのない魚が夕餉のテーブルに並んだ(ナポレオンフィッシュだった)。離島へ飛ぶセスナの飛行は信じられないくらい不安定で、その不安定さは旅客機の比ではなく、月下はここで死ぬのだと覚悟もした(マジで)。ホテルの向かいにあるピザ屋さんに行くのさえ、SPに付き添われた(どんだけ物騒なんだ?)。そして、なぜか入国はフリーパスだった(一応、超VIP待遇だったのだ)。


そんな異国の地で、私が学んだことにどのくらいの価値があるのか?それはわからない。しかし、あの時私の胸の内に刻まれた戒めを、決して忘れることなく生きて行こうとは思う。


なんとなく、そんなふうに思う。