短編作品 『春陽』 〜後編〜





こんなふうにして、僕は彼と出逢った。


僕はみかん畑を通り抜けて、しばしば彼の家を訪ねた。というより、湯河原滞在中、そのほとんどの時間を、彼の家で過ごすようになった。


家の中は男の一人住まいにしては、いつもこざっぱりと片付けられていた。
それというのも、彼の家には必要最小限の家財道具しかなかったせいだろう。彼は、スーパーのレジ袋を果てしなく貯めこんだり、電話機にレースのカバーを掛けたり、赤道上を三周歩いても、まだ履き潰せないくらいの数の革靴を持っていたりするタイプの人間ではなかった。
彼の生活において不必要なものは、自然淘汰的に消滅し、取り除かれ、削り落とされていた。そしてその当然の結果として、彼のライフスタイルは極めてシンプルで、分かりやすいものに仕上がっていた。
そこには、ある種の完璧さともいうべきものがあった。


いつ訪ねて行っても、彼は家に居た。そして、台所で口笛を吹きながらスパゲティーを茹でたり、縁側の安楽椅子に深々と沈み込んで、煙草をふかしたりしていた。


「考え事?」

「いいや。残念ながら何も考えてない。」

「ふうん。」

「御期待にそえなくて申し訳ないね。」

「どういたしまして。仕事は?」

「仕事って?」

「小説家なんでしょ?書かないの?」


彼はゆっくりと椅子から立ち上がると、大きく伸びをしながら、盛大に欠伸をした。そして、ジョン・レノンのような小さな丸眼鏡をずり上げて、右手の甲で両目を、目玉が気の毒なくらい擦った。そして、何度目かの欠伸をようやく噛み殺しながら言った。


「焦って無闇に書き散らしたってダメさ。語るべき言葉は、しかるべき時がくれば向こうからやってくる。僕はただそれを見逃すことなく、そっと捕えて、原稿用紙のマス目に埋め込んでいく。
蝶々の標本を作るのと同じことさ。蝶々を作るのは僕じゃない。僕はただ、それを捕えて、傷付けないように、壊さないように、注意深くピンを打って箱に並べる。それが、僕の仕事。」


彼は擦り過ぎた目をしょぼしょぼさせながら、丸眼鏡を定位置に戻した。そして、新しい煙草に火を付けて、その煙を上手に輪っかにして吐き出して見せた。


「ふうん・・・・・・蝶々はまだ来ないの?」

「らしいね。」

「そういうのって、難しい?」

「考えようによっては。」


僕が行くと必ず、彼は台所でごりごりと豆を挽いて、コーヒーを淹れてくれた。それは香り立つような、素晴らしく美味しいコーヒーだった。今、この世に生を受けたばかりの芸術品といってもよかった。
僕達は縁側に座って、あるいは寝転んで、キャドバリーのチョコレートを齧り、コーヒーを飲んだ。小さな庭に面した縁側は、いつも明るく、暖かな陽射しに溢れていた。


「恋人はいないのか?」

「そうだな・・・・・・壊れかけてる。」

「どんなふうに?」

「壊滅的に。」

「簡潔で、分かりやすい回答だ。」

「ありがとう。」


太陽が、目に見えないくらい緩やかな弧を描いて動くのと一緒に、陽だまりも移ろっていく。僕も縁側の上をずりずりとお尻で歩いて陽だまりを追いかける。


どこかで鳥が鳴く。その姿は見えない。いつものことだ。鳴声の余韻だけが、春の陽射しの中をいつまでも漂っている。


恋人。僕は彼女のことを少しだけ、ほんの少しだけ考える。


しかし、彼女に関する僕の記憶は、思った以上の速度で不確実なものになりつつあった。
彼女の顔も、声も、笑い方も、口癖も、何一つはっきりとは思い出せなかった。すべては遠い過去のことのようにぼんやりと輪郭を失い、色褪せていた。
彼女に最後に会ったのはいつだっただろう。ここへ来る前の日、ほんの1週間前だ。にもかかわらず、彼女という存在は僕の中で、すでに過去の領域へと追いやられようとしていた。


いや、正確に言えば、僕が追いやろうとしているのだ。





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             頑丈な金庫のダイヤルを 注意深く回すみたいに
             カチカチと小さな音を立てながら
             ゆっくりと 少しずつ
             なにかが 動きはじめている

                カチカチ・カチカチ・カチカチ・カチカチ

             それは いつかその黒くて重たい扉が開かれる
             その劇的な瞬間へ向けての ひそやかな作業





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春の陽射しが、惜しみなく降り注いでいる。


その、やわらかな光を全身に浴びて、僕は縁側にごろりと寝転がると、両手両足をグーンと伸ばして思いきり伸びをした。大きく何度も深呼吸をして、肺の奥深くまで、光の粒子を吸い込む。


日常という目に見えない籠の中で、少しづつ萎縮し、こわばって、かさかさに乾涸びていた何億という細胞が、ゆっくりと目醒め始める。そして、僕の思考を、感覚をぴったりと覆い尽くしていた堅牢な灰色の殻は、ゆっくりと溶け出し、僕の意識はどこまでも広がっていく。



限りなく、果てしなく、ずっと高く、もっと遠く。 



「ビルの屋上のね、フェンスを乗り越えて、すごいぎりぎりのところに、僕はずいぶん長い間立ち尽くしていたんだ。強い風が吹く日も、雨が叩きつける日も、太陽が照りつける日も、ずっとだよ。すごいぎりぎりのところに立ったまま、こわごわと遥か地上を覗きこんだり、どこまでも高い空を仰いだりしながらね。
そういうのって、わかる?」

「あぁ、たぶんね。」

「突然、一陣の突風が吹きつけて、僕はどうにか保ってきたそのバランスを崩してしまう。 ”あっ・・・・”て。ほんの一瞬のことなんだ。ビルの屋上のちっぽけなフェンス、必死でしがみついていたおかげで、僕の手垢だらけになったフェンスから引き剥がされるようにして、僕の体は突風にあおられて宙に舞い踊る。

・・・・でもね、その瞬間、僕は思うんだ。”飛べるかもしれない”って。

それまで、自分が飛べるなんてこと、飛ぼうなんてこと、考えてもみなかった。だから、フェンスの向こう側でゆらゆら揺れながら、風に吹かれて、雨にさらされて、それでもそこにしがみついているしかなかった。

でもね、今なら・・・・・今すぐ、ここから、どこへでも飛び立てるような、そんな気がするんだ。うまく風をつかまえて、上昇気流に乗ってね、すごく、もっと、ずっと、高いところまで。

こういうのって、どう思う?」

「いつでも、どこへでも、飛び立てるのさ。」

「そう思う?」

「人はだれでも、いつだって、どこへだって飛び立てるのさ。“飛べる”って思ったその瞬間に、思い切って大地を蹴る事が出来ればね。
大切なのはイメージさ。飛び立てる、そう感じること。」

「うん。」

「大丈夫。忘れていただけさ。失くしてしまったわけじゃない。」

「何を?」

「羽根。」


僕は降り注ぐ陽射しの、その無限の光線へ向けて両手を伸ばす。光の糸が僕の白い指先に絡みつく。目を閉じると、薄い瞼を通してさえ、僕は光を感じることができる。そのあたたかさを感じることができる。


彼は、安楽椅子に沈み込んで、煙草を燻らせている。紫色の煙が、一筋の線になって少しだけ宙をさまよった後で、それは穏やかな午後の風にさらわれていく。





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その日は、珍しく雨が降った。僕が湯河原に来てから初めて降る雨だ。
小糠雨は、シルクの糸をさらに細く縦に裂いて、何度も何度も縦に裂いて、そして、霧か霞になってしまうその一歩手前というところで、、辛うじて一筋の線を描いて地表に届いた。それは、遠く見える温泉街を普段よりもさらに濃く白く煙らせ、みかん畑を潤し、庭石を黒く染めた。


そんな天気にもかかわらず、僕は傘をさすかわりに、ウィンドブレーカーを頭からかぶると、足元に気を付けながら、いつものようにみかん畑を通り抜けて、彼の家に向かった。


美味しいコーヒーが飲みたかった。


みかんの木の間から、彼の家の庭が見えたところで、僕はふと立ち止まった。
庭木の間に薄紫色の女物の傘が.、まるで季節を間違えて咲いてしまった一輪の花のように、なんとなく場違いな感じで揺れているのが見えた。彼の姿は、軒下の雨の掛からないところにあった。話をするにはちょっと遠過ぎるほどの距離を開けて、二人は立ったまま、それでも何か話をしている様子だった。
傘を差しているその人の顔は、陰になって見えなかった。


僕はそのまま、みかん畑を引き返した。ぬかるんだ土が何度も僕の足を捕え、その度に僕は、みかんの木の、そのしっとりと濡れた黒い幹に支えを求めた。肌寒かった。季節が、少し戻ってしまったようだ。僕はウィンドブレーカーの前を何度も掻き合わせた。


僕は屋敷に戻ると、じっとりと重くなってしまったトレーナーを脱ぎ捨て、それから縁側に寝転がって、灰色の雲が低く垂れ込めた空を見上げた。空は隅から隅まで、少しの隙間もなく、きっちりと灰色だった。


庭で話している二人を垣間見た瞬間、僕は二人の間に、にわかには分かちがたい絆のようなものを感じた。過去のある時期、それは二人の間で愛情と呼ばれたものかもしれない。にもかかわらず、今、それは確実に二人を相容れない別な世界へと隔てるものに姿を変え、彼等の間に静かに横たわっていた。


偶然だったとはいえ、見てはいけないものを見てしまったような気がした。そして、変にうろたえてしまった自分が、あまりにも子供っぽく、そのことが、少しだけ僕を惨めな気持ちにさせた。


小糠雨は、相変わらず静かに降り続き、それは音もなく地表を濡らし続けた。
オフェリヤが小さな鈴の音をさせながら、どこからともなくやって来て、ガラス玉のような二つの瞳で僕の顔をじっと見ていた。何もかも見透かしているような瞳だ。


僕は、本を読み始めた。他にするべきことがない。祖父の書斎から、選びもせず、いい加減に持ち出してきて、膝の上に広げた。



車は過ぎんとす。
狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、
手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ・・・・・・・

・・・・列車は五間過ぎ、十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、
ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるがごとくかのハンケチを振りて、
何か呼べるを見つ。   



徳富蘆花の「不如帰」。
すみれ色のハンカチは僕に、やわらかな小糠雨に向かって差しかけられた、あの薄紫色の傘を思い出させる。





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「いずれにしても、すべては遠い遠い過去に押し流されてしまったことさ。
 誰もそれを捉えることはできない。それでいい、そういうふうにできているのさ・・・・・わかるかな。」


彼は、狭い台所で二人分のパスタを茹でながらそう言った。


「たぶんね・・・・・・憶えておくよ。」





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彼は料理が上手かった。
作るものも美味しかったが、無駄な動きのない彼の作業は、見ていて心地よかった。すべては手際よく、順序通りに行われた。彼は、とても多くのパスタのレシピを持っていた。彼はいつも、余熱でさらに柔らかくなることまで考慮に入れて、絶妙のタイミングでそれを茹で上げた。鍋から笊に上げられたパスタは、まるで生きているようにぷりぷりとしていた。


「料理、上手いよね。」

「一人暮しが長いからな。あんまり自慢にならない。」

「確かに。」

「しかし、重要なことだ。」


彼は得意そうににこっと笑い、僕に向かって片目をつぶって見せた。


カルボナーラを食べ終わると、僕達はコーヒーを淹れた。豆を挽くのは、いつのまにか僕の仕事になっていた。僕が台所のテーブルの上でごりごりとやっている間、彼は薬缶を火にかけると、古ぼけた踏み台に腰掛けて煙草を吸っていた。彼の視線は小さな丸眼鏡の向こうから、ぼんやりと紫色の煙の行方を追っていた。それは、ゆらゆらと漂い、そしてどこかへ消えた。


「明日、東京へ帰るよ。」

豆を挽く手を止めないまま、僕は彼にそう告げた。

「そうか。」


彼はそれだけ言うと、短くなった煙草を流し台に投げ込み、縁側へ行ってしまった。


薬缶が、しゅーしゅーと勢いよく白い湯気を吐き出している。台所に一人残された僕は、仕方なく、見よう見真似で、いつも彼のやっているようにしてコーヒーを淹れてみる。


ドリッパーにペーパーフィルターを敷き、挽きたてのコーヒー豆を入れ、薬缶の熱湯を注ぐ。
僕は、ぽたぽたと耐熱ガラスのポットに落ちる琥珀色の液体を、注意深く見つめていた。どんなに睨み付けてみたところでコーヒーの味が変わるとは思えなかったが、他に何をしてよいのかわからなかった。
そして、出来あがったコーヒーをカップに注ぐと、トレーに載せて縁側に運んだ。


僕達は、しばらく黙ってコーヒーを飲んだ。彼が淹れてくれるコーヒーと、それは同じように見えたが、しかし何かが決定的に違っていた。というより、よく似た、まったく別の代物だった。


「似て非なるもの・・・とはこのことだ。」

そう言って彼は可笑しそうに笑った。僕も笑った。

「努力はしたよ。」

「そういう味がする。そこがまた、よろしくない。」

近くの茂みで、姿の見えない鳥が一声短く鳴く。

「寂しい?」

「そうでもないさ。」

「そう言うと思ったよ。」


ぼんやりと庭を眺めながら、ゆっくりと最後のコーヒーを飲み終えた僕は、いつになく時間をかけてスニーカーをはいた。不必要なほどの丁寧さで、紐もきちんと縛った。


うららかな陽射しの中を、穏やかに時間が流れる。


「また来るよ。」

「あぁ、いつでも。」


僕の、少しだけ長めの春休みが終わろうとしていた。





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あれから一年が経った。


東京に戻った僕は相変わらず、どうにかなりそうな問題や、どうにもなりそうもない問題を人並みにこまごまと抱えて、毎日を生きている。それらのいくつかは、僕の人生を少しだけ複雑にしたり、僕をちょっとしたピンチに陥れたりする。


しかし、それだけのことだ。


ある日、彼から小包が届いた。開けてみると中から一冊のハードカヴァーが出てきた。彼が最近書いた小説だ。彼のところにもようやく蝶々がやって来たらしい。
この本は巷でちょっとした話題になり、そして彼自身もちょっとした有名人になった。にもかかわらず、彼は相変わらずみかん畑の一軒家でスパゲティーを茹でている。


「本屋で買って、とっくに読んだよ。送ってくれるなら、もっと早く送ってほしいよねぇ・・・・・」


と、口のなかでぶつぶつと呟きながら、何度も読み返した本の、しかしまったく新品のそれをぱらぱらとめくっていると、背表紙の裏に、サインペンで何やら書いてある。


【泥水みたいなコーヒーが飲みたくなったぞ。】


「泥水とはひどいね・・・・」 思わず苦笑する。




春一番が、僕の白いシャツの背中を膨らませて、通り過ぎていった。







+++ 終 +++