短編作品 『アネモネ』 〜後編〜
夢を見る いつも同じ夢
何度も何度も いつも同じ夢
夢ならば早く醒めて欲しいと 夢ならばどうかこのままでと 僕はその ゆらゆらと揺れる不安定な天秤の上に 辛うじて佇んでいる
深く閉ざされた 針葉樹の森 鮮やかな色彩も まばゆい光華も 無残に果てたこの森の中で ただすべては 暗澹たる陰影のうちに 深く沈んでいる
鬱蒼と濫立する黒い樹々は つめたく凍りつき 寂寥たる大地は どこまでも雪に覆われ 陰惨な灰色の空には 雲が低く垂れこめている
森閑たる世界 音のない空間 これ以上はないというほどの 完全な静寂
鋭利な刃物のような寒風は 容赦なく 僕の肌を切りつけながら 通り過ぎて行き 巻き上げられた雪煙は 乱麻のように 僕に絡みつく
雪 雪 雪 雪 深々と 何処までも 静かに降り積もる 白い狂気
寒い とても寒い
僕はどうして どうしてこんなところに
迷い込んでしまったのか……
森の奥へ もっと奥へ 誘い込まれるように 歩みを進める僕の足元で 穢れを知らない雪が さらさらと さらさらと 音もなく崩れる
行かないほうがいい これ以上
わかってる
わかってるけど・・・・
ふと 深い雪に足をとられて 僕は崩れ落ちるように 新雪の中へ倒れこむ
動けない
疲れてしまったわけではないのに
動けない
もう 立ちあがることさえ 叶わない
やわらかな雪に 半ば横顔を埋めるようにして じっと倒れこんでいる僕の視界の隅に 数知れない針葉樹が 天を突くようにして 聳え立っている その鋭く尖った葉先に 氷の結晶が 鈍く光る
遥か天空から吹き払われ 儚げに中空を漂いながら この荒涼たる大地に届いた 白い結晶は 身じろぎひとつすることなく 息をひそめたまま じっと倒れている僕を ただ白一色の世界の中へと 塗りこめていく
僕が 薄れていく
寒気は僕の感覚を じわじわと侵食し 僕の身体を 確実に蝕んでいく 身を切るような寒ささえ もはや感じられない 僕の思考は もう何も紡ぎ出さない
規則正しく打ち続ける胸の鼓動が 遠くで聞こえる
あまりにも無防備で あまりにも無抵抗な僕を 何かが 何処かへ 誘っている
ゆらゆらと手招く その白い手を 僕は振りほどけない
僕の日常から 遠く懸け離れたところにあるはずだった 踏み越えてはならないボーダーが 今 僕の膝下にある 踏み越えてしまうことは あまりにもたやすい
もう いいから
このままで いいから
何かが 僕の途切れがちな思考を 掻きたてようとしている
やめてくれ
僕は 何かを思い出そうとする 何かを 何を? 思い出せない とても大切なことだったような気がする ずっと大切にしてきたものだったような気がする しかしそれは 冷たい指先に触れるかと思うその瞬間 深い記憶の淵へと 沈みこんでしまう 塞がれてゆく意識に 閉ざされてしまう
思い出せない 思い出せない
いつの間に そんなものを握り締めたものか ふと開いてみる掌には 一握の細雪
僕は瞼を閉じる
抗い難い力に そっと捕えられるように
罪のない眠りに 堕ちていくように
そして なめらかな傾斜を 音もなく滑り落ちていきながら 僕の意識は 緩やかに失墜してゆく
深く閉ざされた 針葉樹の森の中で
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彼女の事件が、ショッキングな出来事であったことには違いない。とは言うものの、それは時間の経過と共に、今だ日常の中に留まっている人達の記憶から少しずつ、確実に遠ざかって行き、やがて過去の領域へと追いやられていった。およそ事件と呼ばれるものの、宿命として。 彼女が僕達と同じ日常という輪の中に存在したという、その気配のようなものは次第に薄らいでいき、しかるべき場所に残された者の生活は、彼女という存在を失ったままでも充分に、その機能を果たしていた。そして、いつしか彼女の名前が話題に上ることも、僕に対して過分な同情が向けられることも少なくなった。
そんなふうにして、事件から一ヶ月ほどたったある日曜日の午後、僕は事件以来初めて、再び病院を訪れた。雪のちらつく、寒い日だった。僕は、真っ白な息を吐きながら、時折コートの前を掻き合わせ、胸の前で腕を組んだまま、足早に病院へと向かった。
病室に入ると、窓辺のベッドの上に彼女は横たわっていた。彼女はただ眠っているようにしか見えなかった。まったく変わったところなどないように見えながら、しかし変わり果ててしまった彼女の姿を目の前にしても、僕の心の中に特別な想いが去来することはなかった。僕は、よくできた、珍しい人形でも眺めるように、感情の欠落した視線を彼女に落としていた。
僕は、窓辺に置かれた三本足の椅子に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めた。 こんなふうになる前、彼女に最後に会ったのは、いつだっただろう。僕達は、何を話し、何処を歩き、どんなふうに笑っただろう。しかし、ぽっかりとそこだけが抜け落ちてしまったように、僕は何も、何一つ、思い出すことができなかった。一瞬、言いようのない苛立たしさが、僕をかすめて通り過ぎていったが、しかし、それだけのことだった。
窓の外では、さっきまで、気まぐれにちらついていた雪が、いよいよ本格的に降り始めていた。
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僕は思う
たとえば たとえば 僕が本当に 彼女を想っていたのなら・・・・と そして 愛するがゆえに その先で僕を待ち受けるであろう あらゆる辛苦に思いを馳せる
たとえば
もがいても もがいても そして もがけば もがくほど その深みに引きずり込まれていくような 底無しの悲しみ
たとえば
一条の光さえ射すことのない 漆黒の闇の中を 手探りで彷徨いつづける孤独
たとえば
たったひとつの願いが届くなら 再び光を見ることが叶わぬとしても厭いはしないと 声の限りに叫ぶ言葉
喉も裂けよとばかりの慟哭
胸を掻き切られるような痛み
不意に胸を衝く喪失感
絶え間なく繰り返される 悪夢に苛まれ 狂気へと手を伸ばす刹那
僕はそれを 目も眩むような眩しさに瞳を凝らすのにも似た 憧憬ともいえる眼差しで見据える
おぞましくも美しい 畏怖しくも甘美なる極限の苦痛が 僕を陶酔させる 我が身を裂いて血飛沫をあげようとする その果てしない自虐性が 僕を攪乱させる
そして ちらちらと 蒼く暗い光を放つ その妖しい焔に 手を差し伸べてしまいたい衝動に駈られる
たとえ そのすべてが 僕にとっては 偽りだとしても 幻想だとしても
僕は思う
たとえば たとえば 僕が本当に 彼女を想っていたのなら・・・・ そして その先で僕を待ち受けるであろう あらゆる辛苦のうちに いっそのこと 我が身を投げ出してしまうことができるなら・・・・
しかし僕は いかなる苦痛のうちにも 沈み込んでいくことがなく いかなる悲しみのうちにも 倒れることがなく ただ 茫漠とした想いに塞がれたまま 仄白い薄暗がりの中 出口のない迷宮を彷徨っている
どこまでも 果てしなく続く 出口のない迷宮 導く標ひとつない 迷いの森
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この病室で過ごす時間を除けば、僕は何処にでもいる、ごく普通の青年である。
高校を卒業した僕は、家から電車で三十分ほどのところにある、良くも悪くもない程度の私立大学に通っている。経済学部に籍をおいているが、それは目標に向かって邁進した結果、というよりはむしろ、なんとなく、なりゆきで、行きついたところが経済学部だった、というだけのことである。
僕の学生生活は、ほかの多くの学生達のそれと、何ら変わるところはない。たいしておもしろくもない講義に出てみたり、出なかったり、おかげで単位を落としてみたり、どうにか命拾いをしてみたり、くだらないサークルのくだらない集まりに顔を出したり、ろくでもない酒を飲んで酔いつぶれてみたり、そんな感じである。
僕が、ある種の特殊な状況を抱え込んでいることを知っている友人は少ない。彼らとて、僕の前でそのことについて触れることは、極力避けているように見える。それは、その事実をどう扱って良いものやら、考え倦んだ末に、触れずに済ませることにしたという、ある種の思いやりというよりは、むしろ、単なる回避と呼ぶべき種類のものである。だとしても、そのことで、僕が何かしら不都合を蒙るはずもなく、どういうかたちであれ、触れずにいてくれることはありがたい。
そのことについて何も知らない多くの友人達は、僕のことを女嫌いの変わり者だと思っている。女嫌い・・・・別に、嫌いなわけではない、つもりだ。しかし、ある日誰かが僕のことをそう呼んだ。そう言われてみると、そんな気がしないでもない。自分でもよく分からない。いずれにしても、彼女のことが無関係だとは言いきれないとは思うが、その細かい因果関係については、よくわからない。少なくともほかの誰かに上手く説明が出来るほどには、自分でも理解していないということである。
つまり、僕が抱え込んでいるある種の特殊な状況によって、僕の日常生活が大きく揺らぐということはなかった。少なくとも表面上においては。そして、たとえそれが、僕が無意識のうちに、あらゆる選択を注意深く行い、日常生活をうまくコントロールすることに成功した結果かもしれなかったとしても、である。 あるいは、あの事件がなかったら、今の僕を取り巻く日常は、もっと違うものになっていたかもしれないが、それはあくまでも、ひとつの可能性であり、仮定にすぎない。
いずれにしても、こうして、彼女の存在というものは、僕の日常から静かに、確実に、切り離され、締め出されている。
週に一度、火曜日の午後、僕はここへやって来る。この習慣だけが、僕のささやかな日常にある種の特異性をもたらしているといえなくもない。
大学の帰り、僕は自宅とは逆方向へと向かう私電に乗りこむ。五つ目の駅で降りると、駅前の花屋で小さな花束を買い求め、ロータリーからバスに乗る。そして、病院前の停留所でバスを降りる。 立派なエントランスをくぐり、吹き抜けの天窓から明るい陽射しが差し込むロビーを抜け、外来受付のカウンターと調剤カウンターの前を通り過ぎ、寡黙な外来患者が溢れかえる待合を、俯いたまま足早に過ぎる。
がらんとしたエレベーターホールには緑色のドアのエレベーターが三台、そのうち、向かって一番左のドアの前で、僕はその扉が開くのを待つ。彼女の病室がある最上階の六階まで直通しているのは、このエレベーターだけである。扉が開くと、僕は原理のよく分からない鉄の箱に乗りこむ。箱はするすると音もなく、ドアを開けたり、閉めたりしながら、そして、見ず知らずの人達を吸い込んだり、吐き出したりしながら、僕を六階まで運んでいく。エレベーターを降りると、両脇に病室のドアがずらりと並んだ、長くて白い廊下が左右に伸びている。僕は迷うことなく左へ歩いて行く。突き当りまで行くと、その右側の角部屋が彼女の病室である。病室のつるりとしたドアノブはいつでもひんやりと冷たい。静かに右に回す。ドアは音もなく外側へ開く。
なぜ僕がここにやってくるのか? そのことについては、僕自身にもよくわからない。 なぜ僕がここにやってくるのか? もしそのことについて、何かしら答えのようなものを僕が与えることができるとしたら、あるいは僕はここへはやってこないかもしれない。
わからない。
なぜ僕がここにやってくるのか? 僕はそのことについての、もっともらしいいくつかの原因と、見当違いかもしれないいくつかの原因に、何度も思いを巡らせてみる。どれもが、それで充分な理由のようにも思われるし、どれもがそれでは不充分な理由のようにも思われる。あるいは、それらが複雑に絡み合って、その結果、僕はここにやってくるのかもしれない。
わからない。
結局、僕の思考は何処へも行きつくことなく、いつも中途半端なまま、宙に投げ出されている。 しかし、いずれにせよ、僕はここにやってくるし、今はそのことについて、僕は僕をどうすることもできない。
僕は僕をどうすることもできない。
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彼女の顔に掌を近づける 暖かく湿り気をおびた呼気が 僕の掌をわずかにくすぐる
こわれそうに華奢な その小さな手は そっと触れれば やわらかく あたたかい
白い毛布をかけられた薄い胸は 規則正しい呼吸に合わせて かすかに上下している
彼女が生きているという 小さな証 それは僕にとって もはや たいした意味もないけれど 確かな証
安堵 落胆 焦燥 諦観
彼女の横顔を眺めているだけの僕の中で あらゆる感情が まるで小さな気泡のように 生まれては消え 消えては生まれる
鏡のような水面は そこで弾ける数多の気泡によって わずかに揺らぎはじめる それはいつしか 微かな漣となり 打ち寄せる波となり 果ては 砕ける濁流となって 僕を突き崩し 押し流し 暗い水底へと 引きずり込もうとする 僕はただ 暗いうねりに巻かれながら 固く目を閉じて その濁流の中に じっと立ち尽くす
僕は 僕を どうすることもできない。
鋭角な陽射しが 白いこの部屋を 橙色に染めはじめる
秋の落陽は何を急ぐのか あたりは瞬く間に 夕暮れの気配に包まれる
最後の一滴を搾り出したような 鮮やかな夕日をうけて 彼女の横顔には 濃く 深く 陰影が刻まれ その口元が 憂いを含んだ微笑を 浮かべたように見える
窓越しに 遥か地上に瞳を凝らしてみるが 僕がこの窓から葬った 哀れなアネモネは 疾うに何処かへ吹き飛ばされてしまったらしい 真紅の花弁の一片さえ 見当たりはしない まるでそんなもの 初めからなかったとでもいうかのように
中庭では からからと かさかさと かわいた音をさせながら 通りすがりの風が 通りすがりのプラタナスの枯葉を ここそこに吹き散らしている
また冬が来る
思えば僕は 彼女と一緒に 街を歩き 映画館に通い ジャンクフードを食べて過ごした時間よりも 遥かに長い時間を 彼女と一緒に この病室で過ごしたことになる
たとえそのことに もはや 何の意味もないとしても それはひとつの 事実として
僕は三本脚の丸椅子から立ちあがると 肩でドアを押しながら 病室を後にする
「また来るよ」
たぶん誰にも届かないその言葉を 僕はこのドアの前で もう何度呟いただろう
またひとつ 誰にも届かない小さな呟きは 僕の心に降り積もり そして それに蓋をするかのように 僕の背中で ドアが静かに閉まる
かちゃり。
誰もいない静かな廊下を 今ついたばかりの 蛍光灯の蒼白い列が 白々と照らしている
僕は どうすることもできない僕を連れたまま きっとこんなふうに 無機質な足音を響かせながら 歩いていく
まだ しばらくは
まだ しばらくは。
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いつか どこかで なにかが 少しだけ狂い そして 狂ったまま回り続けている
それは ひとつの円周上を回り続けているように見えながら しかし その軌跡は少しずつずれていき 僕を もといたところから 遥か遠い場所へと連れ去ってしまうだろう
それはまるで 螺旋階段のように
くるくると くるくると 螺旋階段のように
そして僕は その錆付いた手摺から身を乗り出し 堕ちていく一輪のアネモネに手を伸ばす
しかし僕の指先は その深紅の花弁に届くことはなく 虚しく空を切るだろう
何度も 何度も
そして
何度も 何度も
堕ちていくアネモネに ただ一言の 餞の言葉を探しながら。
+++ 終 +++
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