短編作品 『螺旋階段の果て 〜アネモネに寄せて〜』
僕は 螺旋階段をのぼっている
一歩一歩 一段一段
確実にのぼっている
のぼっている のぼっている
のぼっているはずである
対象物が何もないから 本当にのぼっているのかどうか 定かではない ただ 感覚としては のぼっている
かん、かん、かん。 かん、かん、かん。
僕の靴音だけが 妙に高く 無音の虚空に 吸いこまれていく
かん、かん、かん。 かん、かん、かん。
あたりは暗く 仄白い靄が立ち込めている
かん、かん、かん。 かん、かん、かん。
ここには 刻まれるべき時間すら 存在しない
誰か・・・・ そう言いかけた僕の声には なんの響きもなく つるりとした 奇妙な感触を残して 闇に吸いこまれる
かん、かん、かん。 かん、かん、かん。
同じところを くるくるとまわりながら 僕は どこまでのぼっていくのだろう?
同じところを くるくるとまわりながら 僕は どのくらいのぼってきただろう?
かん、かん、かん。 かん、かん、かん。
僕は ただ黙って のぼり続ける
のぼり続ける
その あまりに果てしない道程の長さに 『 この螺旋階段を降りてみようか 』 という考えが ちらりと脳裏を掠めた瞬間 僕は 僕以外の何かの気配を捉えた
ごく僅かだが 動くものの気配
足元ばかりを見つめていた顔を上げると 螺旋階段の 数段上に立って 僕を見下ろしている人がいる
僕の恋人
それは かつての 僕の恋人
理由も告げぬまま 先に逝った 僕の恋人
彼女の口元が ゆっくりと動く
「・・・・・」
しかし 言葉は声にならず ただ小さな振動となって 彼女の不確かな輪郭を 小刻みに震わせている
彼女は僅かに首をかしげ 悲しそうに ちいさく微笑む
僕は・・・ 僕は・・・
幾度となく 頭の中で反芻してきたはずの言葉が 今 このときに限って ひとつも出てこないのは 何故だろう
僕は 泣きたいような気分になった
彼女が死んで 初めて 本当に 泣きたいと思った
彼女が死んで 初めて 本当に 悲しいと思った
僕を ひとりにしないでほしい 僕をおいて 逝かないでほしい
彼女が死んで 初めて 本当に 本当に 心の底からそう思った
言葉もなく立ち尽くす僕の横を 彼女の気配が 通り過ぎる
そして 彼女は 音もなく螺旋階段を 降りてゆく
「待って」
ゆっくりと振りかえり 僕を見上げるその姿は 瞼の裏でゆらめく残像のように 薄れはじめている
「さよなら」
僕のかすれた声に 彼女は ちいさく微笑んで 頷いた
それが合図であったかのように 次の瞬間 彼女の輪郭は 大きく歪んだかと思うと 暗闇の中で 急速に滲んでいく
そしてそれは 瞬く間に 細かな光の粒子となって 緩やかに拡散し 乳白色の靄の中に 溶けだして 跡形もなく 消えて 失くなった
あたりは 再び闇に閉ざされる
無意識にのばした 僕の指先が そのまま 行き場を失くして 宙を彷徨う
僕は 螺旋階段をのぼっている
かん、かん、かん。 かん、かん、かん。
僕は立ち止まり 冷たい手摺に体を預け 遥か下界を覗きこむ
曖昧な暗闇 粛々たる静寂
ただ それだけを見届けて 僕は再び 螺旋階段をのぼってゆく
かん、かん・・・・
かん、かん、かん、 かん、かん、かん、かん、かん、かん。
少しずつ 速度を速めて いつしか 僕は 駆けだしている
ただ それだけが 僕が 僕である 証であるかのように ただ それだけが 僕が 生きてゆく 約束であるかのように
高く 高く 靴音を 鳴らして 僕は 駆け上がっていく
駆け上がっていく
かん、かん、かん、かん、 かん、かん、かん、かん、かん、かん ・・・・・・
+++ 終 +++
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