短編作品 『 グリコとノジマ 』 〜後編〜





通り過ぎていく心地よい風が梢を揺らし、森がさわりさわりと囁いている。
仄かに甘い匂いが漂ってきた。何処かで花が咲いているのかもしれない。




[ ここは、静かだな。]

[ うん。]

[ ノジマはどこかな。]

[ たぶん、どこかの木の上。]




[ ワタルの心の中には、こんなに美しい森があることをワタルに教えてあげたかった。]

[ うん。]

[ だから迎えに行ったの。ノジマと一緒に。]

[ うん。]

[ ワタルの心の、ずっとずっと深いところまで、こんなふうに降りてきて欲しかったから。]

[ うん。]




[ グリコ、僕はまだ、間に合うだろうか?]

[ ・・・・わからない。]




[ グリコ。]

[ なあに。]

[ 僕、戻るよ。]

[ 戻って、それからどうするの?]

[ そうだな、散歩に行こう。パンを買って、ミルクを買って、花も飾ろう。]

[ 素適ね。ミモザがいい。黄色くて可愛いから。]

[ そうだね、ミモザにしよう。温かいミルクを飲んで、バターを塗ったパンも食べよう。]




僕がまだ、生きていたら。




静寂を切り裂くように、力強く、甲高い鳴き声が森に響き渡る。きっとノジマの声だ。




[ グリコ。]

[ うん。]

[ グリコ、ありがとう。ノジマ、あり・・が・・・・と・・・・]








猛烈な頭痛と、激しい吐き気、そして胸の焼けるような激痛に身をよじって、ワタルはアトリエの床にうずくまっている。
痛い。苦しい。頭は今にも割れてしまいそうだし、胸は引き裂かれてしまいそうだ。

痛い。苦しい。


今にも意識が遠のいてしまいそうになる。
だめだ。戻って来い。


床に投げ出された指先には薬瓶が転がり、あたりには白い錠剤がばら撒かれている。ワタルは、全身全霊の力を奮い立たせて、白い点々を踏み砕きながらよろよろと流し台に向かい、そこで激しく嘔吐を繰り返す。




どのくらいの時間がたったのだろう。
何時間なのか?あるいは何日なのか?見当もつかない。


再び目を醒ました時、ワタルはソファにうつ伏せていた。

最悪の気分だ。咽喉はひりひりと痛み、頭は鉛でも埋め込まれたように重い。しかし、それらの苦痛は、ワタルがまだ生きているという証でもあった。浅い呼吸を繰り返しながら、ワタルは自分がまだ生きているのだということを何度も確かめている。


深く濁った意識の中で、ワタルは森のことを考えていた。


あれは、夢だったのだろうか。
肩に降り注ぐ木漏れ日の暖かさ。
頬を撫でて過ぎ行く柔らかな風。


すべては、悪夢の切れ目に垣間見た、幻だったのだろうか。


重い瞼を無理やり引き上げる。
ワタルはひどくぼやけた視界の隅で、何か黄色いものが揺れているのを見ている。

”あれは、なんだろう。”

ゆっくりと時間をかけて、次第に焦点が合ってくる。



   ・・・・ミモザ。



ワタルはゆっくりと起き上がると、まだ覚束ない足取りで窓辺に立つ。そして、西向きの小さな窓を押し開けて、空を仰いだ。
灰色の雲が、東の空に流れていく。雨は疾うに上がっていたようだ。




初夏の気配を運んできた生温い風が、テーブルの上のミモザを揺らしている。







+++ 終 +++