短編作品 『ノクターン』 〜終楽章〜





満月の晩、僕はルイドと共に、はじめて森に足を踏み入れた。


鬱蒼とした森の中は、どこまでも深い闇と、果てしない静寂に包まれている。
運命の手から手へ、受け継がれてきたそのバトンを手にした何人もの番人たちが、通い、そして踏み固めていったのであろう、森の中の細い一本道。
ルイドにとっては、通い慣れたこの道を、僕は今日、はじめて歩く。そして、僕がこれから幾度となく通うであろうこの道を、ルイドはしかし、もう二度と通ることはないのだ。


今ここで、人知れず、密やかに、二つの運命がすれ違おうとしている。


僕は、はじめてルイドとこちら側にやって来た日のことを思い出していた。あれから、いったいどのくらいの時間が過ぎただろう。二ヶ月か、三ヶ月か。いや、半年か、一年か。僕の時間軸は、いつのまにかすっかり狂ってしまったらしい。
あの日は、濃い霧が立ち込めていた。すぐ前を足早に歩く彼の姿は、闇に紛れ、霧に閉ざされて、僕はそれを見失わないように追いかけた。


”彼を二度と見失ってはならない・・・・”
・・・・しかし今、僕はその彼のために、冥界への門を開こうとしている。


ほんの些細な感慨が、いちいち僕の胸を押し潰した。


その門は、突如として僕の目の前にその姿を現した。
僕は、黒々とした鉄板を打ち付けたような、大きくて重い鉄の扉を思い描いていたが、実際の門は、僕が思っていたよりも、ずっと優雅で、華奢で、上品だった。細い柵は互いに絡み合い、唐草模様のような、複雑な図柄を描き出している。


そしてそれは、深い森の中で、静かに、ふたりの番人の到着を待ち受けていた。


「ここだ。」

「うん。」


彼は門に寄りかかって煙草に火を点け、口の端に咥えた。紫煙は、風にさらわれて、あっという間に流されていく。それから、彼はふと何かを思い出したように、自分が着ていたコートをひらりと脱ぐと、僕の肩に着せ掛けた。


「ルイド・・・・いつかまた、生まれ変わっても、何度も何度も、生まれ変わっても、その時は必ず、また必ず・・・・」

決して泣くまいと心に誓っていた僕の、そのささやかな決心は、今にも挫けそうだった。

「あぁ、約束しよう。きっとまた、おまえを見つけ出そう。きっと、きっと、何度でも。」




その時、一陣の生温かい風が、森の中を吹き抜けていった。そして、それが合図であったかのように、俄かに雲が切れ、大きな満月が姿を現した。空を仰いだルイドの横顔を、凛と冴えた月光が照らしている。こんな時でさえ、彼は変わらず美しかった。


「お別れだ・・・・さぁ、祈りの言葉を。」


彼に促されて、僕は門の正面に立った。そして、胸に深く息を吸いこみ、祈りの言葉を口にすると、門は音もなく開いた。


「レイジ、ありがとう。」

「ルイド・・・・」


彼が、開かれた門の向こう側へ、ゆっくりと足を踏み入れる。一歩、二歩・・・・彼は立ち止まり、そして振り返った。すぐそこにいるのに、手を伸ばせば触れることもできる距離なのに、しかし、彼はすでに冥界の住人だった。
彼の、少しクセのある柔らかな髪を揺らして、温かい風が通り過ぎる。僕に向かって何か言っているようだったが、もう、その言葉は聞き取れない。しかし、その口元はうっすらと微笑んでいた。


開いたときと同じように、門は僕の目の前で音もなく閉ざされた。


絡み合う細い柵の向こうで、彼の姿は、まるであたりの闇に溶けていくように、その輪郭を失いはじめる。そして、次第に薄れていったかと思うと、ぼんやりと光る白い残像を残しながら、やがて消えて、見えなくなった。




僕は地面に跪き、ひとり静寂の中にいた。


主をなくした煙草が地面に落ちて、そこで紫色の煙を揺らしている。
それが、音もなく燃え尽きて灰になり、風にさらわれて、跡形もなくなってしまったのを見届けると、僕は静かに立ちあがり、門に背を向けた。そして、今し方ルイドと歩いてきたその道を、ひとり、屋敷に向けて歩き出す。
胸を張り、背筋を伸ばして、足早にぐんぐん歩いていく。零れ落ちそうになる涙は、空を仰いでぐっと堪えた。


樹々の梢をざわざわと騒がせて、真夜中の森を温かい風が通り抜けていく。




黒いコートの裾が、向かい風に大きく翻った。







+++ 終 +++