つまり、愛情というのはそういうものだと思うのです。





6月某日は、月下の愛猫・ハナの命日でした。


いつかエッセイにも書いた事がありますが(『猫に点滴を打ってみよう』参照)、ハナは回復することなく、およそおよそ8ヶ月の闘病の末、天国へと旅立ちました。
結局、このエッセイが書けるようになるまで、1年かかりましたね。


それは、よく晴れた日曜日の朝でした。
ハナはいつも、専用のベッドで寝ていたのですが、虫が知らせたのでしょうか?最後の夜、私はハナを自分のベッドの枕元で寝かせました。そしてその朝、私が目覚めるのを待っていたかのように、ハナは起きたばかりの私の目の前で、不自然な呼吸を数回したかと思うと、そのまま静かに息を引き取りました。


もう長くはないだろうと思ってはいました。それでも、ハナが死んだのだということが、理解できなくて、私はひどく狼狽しました。今までに、幾度か人の死に立ち会ってきましたが、本当に大切なものを失ったのだということを、こんなにも強く感じたのは、このときが初めてだったかもしれません。


私は、ペット専用の火葬場にハナを連れて行きました。数時間後、ハナは、小さな小さな骨になってしまいました。それから数日後、私はハナの骨を庭の、明るくて日当たりのいい場所に埋めてやりました。そして、その上に小さな墓石を置きました。


この時はもう、悲しみはありませんでした。私は彼女のためにしてやれるだけのことはしたし、注げるだけの愛情は注ぎ、大切な友達として、相棒として、敬意を払うことを怠らず、悔やむべき事など、何もありませんでした。


そして何よりも、彼女はいつか必ず、必ず私のもとに戻ってくるという思いが、私の中にはありました。今度私の前に姿を現すときは、猫ではないかもしれません。他の何かであるかもしれませんが、それでも必ず、彼女は私の元に再び現れるでしょう。
そして私は、必ず、それが彼女であるという事に気付くに違いない・・・・その思いは、もはや確信に近いものでさえありました。


つまり、愛情というのは、そういうものだと思うのです。


愛情というのは、何度生まれ変わっても、何度も何度も生まれ変わっても、いつか必ず、再び巡り逢うことが出来るための、道標なのだと、私は思うのです。そこに愛情がある限り、その愛情は、引き裂かれたものたちを、必ずやまた、巡り逢わせてくれるに違いない・・・・ハナの小さな骨壷を抱いて、私はそんなことを思いました。




そして時は流れ、あれから1年。




先日、1週間ほどの海外旅行から、姑ちゃんが帰ってきました。
そして、靴を脱ぐのももどかしそうに、玄関先で大きな旅行鞄を開けると、中から何やらゴソゴソと出してきました。

「なんかね、この子が呼んでるような気がしてね・・・・」

そう言って、姑ちゃんは、その包を私にくれました。
現地の新聞紙に包まれたそれは、どうやら置物か何かのようです。しょっちゅう旅行に行く姑ちゃんですが、置物など買ってきたのはこれが初めてです。それに、その包は、 "ちょっとお土産"・・・・というには、結構な大きさでした。


包を解くと、それは木彫りの猫でした。
死んだハナは、白い鼻先に、判子を押したように円く、黒い毛が生えていたのですが、その木彫りの猫にも、同じ場所に、同じような円い傷がありました。

「おばあちゃん、今日、何の日だか知ってる?」

「・・・・ん?何の日だったかな?」

「ハナの命日だよ。」


遥か異国の地で、姑ちゃんに呼びかけたかもしれない木彫りの猫は、ハナの生まれ変わりなのでしょうか?まぁ、そんなことはないでしょうが(笑)、その猫を見ていると、なんだかハナが、「もう少し、待っててね。」 と言っているような気がするのです。