短編作品 『春陽』 〜前編〜





その春、僕は18歳だった。18歳。微妙な年齢だ。


身の回りに起きるすべての事柄について、その意味や価値を見出すには、まだ少々若すぎたし、かといって、すべてのことを鵜呑みにできてしまうほど、子供でもなかった。


世の中というのは、一個人の努力によってどうにかなるという種類のものばかりで構成されているわけではない。むしろそれは例外とさえ呼ぶべきものであって、僕達はもっと大きなうねりの中で掌握不能な事実に飲み込まれるようにして日々を生きている。


そんなことを僕は、18歳の僕は、うすうす感じ始めていた。
そして、そういう現実に一歩一歩確実に近づきつつあるということに対して、そういう大きなうねりの中に少しづつ引き込まれていくであろう未来に対して、漠然とした不安なり、怖れなりを抱いてもいた。


   蒼い果実は少しずつ色づき、熟れて、そしていつかぽそりと地面に落ちる。
   そして、自らの力で大地に根を張り、若葉を広げ、花を咲かせ、実を結ぶ。

   自然の摂理というものだ。


つまり、僕は大人になろうとしていた。少しずつ、確実に。しかし僕は、隅から隅まで知り尽くしたその場所を離れようとはしなかった。居心地のよい、安全な場所。そして、少しずつ窮屈になりつつある場所。



僕にとって18歳というのは、そういう年齢だった。





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「羽根が必要なのさ。」  とその人は言った。

「透き通った、しなやかな一対の羽根を持つことだ。
               ここから、今すぐ、どこへでも飛び立てる。」

「僕には羽根なんてない。僕はトンボじゃない。」

「じゃぁ、トンボ以下だな。」  そう言って、彼は少しだけ笑った。





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僕がはじめてその人に出合ったのは、僕が18歳の春だった。


自己嫌悪やら、自信過剰やら、励ましやら、慰めやら・・・・そういった何や彼やに翻弄されながら、どうにか大学も決まり、高校の卒業証書を手にした僕には、いつもより少し長い春休みが用意されていた。
こういうのは悪くない。なんだか少し得した気分だ。


その春休み、僕は家庭内の様々な、そしてわりとどうでもいいような事情によって、湯河原に住む祖母のところに居候していた。祖父は2年前に病気で他界しており、山の中腹に、温泉街を見下ろすように建てられた広い屋敷には、祖母がひとりで暮らしていた。


屋敷には、広い庭があった。かなりの広さの庭である。その庭が終わったあたりから先は、山のなだらかな斜面に沿ってみかん畑が広がっていた。そして、みかん畑は山裾まで続き、その先には温泉街が広がっていて、そのあたりの空気はいつも白く霞んでいた。


僕はその屋敷で、とくに何をするということもなく過ごしていた。
18歳の青年にとって、それは退屈といえば退屈な時間だったはずだが、しかし、その時の僕にとって、それはさしたる苦痛ではなかった。
むしろ、何もしない、何もない、ということが、返って新鮮にさえ感じられた。


18歳の僕は18歳の僕なりに、ささやかな悩みや問題を細々と抱えていた。
例えばそれは、果たされないであろう約束や、壊れかけている恋や、借りたままの本や、思い出せない電話番号や・・・・あるいは、もう少しまともな悩みもあったような気がするが、とにかく、そんなことだ。


事態はさほど煮詰まっていなかったとしても、その時の僕としては、とりあえずいろんな事を”保留”ということにしておきたかった。
”保留”・・・・それは、悪い考えではないように思われた。例えそれが何一つ根本的な解決にならないとしても、である。


たとえば。


何もかも全部まとめて箱に詰め、しっかりと鍵をかけ、ぽーんと宙に放り投げる。
その箱が滑らかに描く放物線の、その一番高いところで、僕は指をパチンと鳴らす。
パンドラの箱は宙に浮いてぴたりと静止したまま、僕がもう一度指を鳴らすまでは落ちて来ない。


僕が望んだのは、そういう刹那的な逃避だ。





クールダウン。             
スイッチを切り、コンセントを抜いて、 
コンプレッサーの小さな唸りを静める。





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僕は1日中、縁側の陽だまりで本を読んだり、オフェリヤをかまったりした。


オフェリヤは、歳取った、真っ白い雌猫だった。首に赤いリボンで小さな金色の鈴をつけてもらっていた。彼女は僕が縁側に座ると、必ずどこからかちりんちりんと音をさせながらやって来た。そして、顎の下を撫でたり、背中を撫でたりしてやると、低くごろごろと喉を鳴らした。それは、オフェリヤの体全体に共鳴して、素敵な響き方をした。それから、彼女は僕にくっついて丸くなり、そこでいつまでも眠った。


僕は亡くなった祖父の書斎からいい加減に選んできた本を膝の上に広げては、読むでもなく、読まぬでもなく、しかし視線だけは、黄ばんだページに行儀よく並んだ活字を追っている。


時折、どこかで鳥が鳴く。
ふと顔を上げてみるが、そこに声の主の姿を認めることはできない。いつもそうだ。
どんな鳥が鳴くのだろう。気になる。気にし始めるとますます気になる。あるいは、僕はしつこい性格なのかもしれない。


また、鳥が鳴く。声のした方を急いで振り返る。鳥の姿はない。潅木の、上品に刈り込まれた茂みがあるだけだ。そして、ただその声の余韻だけが、どこからか突然切り離されて、何もない宙へ突然放り出されたような格好で、いつまでも、陽だまりの光の粒子の中を漂っている。





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彼は、小説家だ。もっと正確に言えば、売れない小説家だ。


年齢は僕のお父さんと同じくらいのように見えたが、実際のところは分からない。もっと歳を取っていたかもしれないし、もっと若かったかもしれない。
何歳と言われても、黙って頷くしかない、そういう感じの歳の取り方をしていた。年齢不詳。


彼には家族がいなかった。奥さんも子供もいなかった。みかん畑のはずれにある、小さな庭のある小さな家で、ひとりで暮らしていた。犬も猫も、金魚一匹いなかった。


「寂しくない?」

「慣れたね。人間はいろんなものに慣れてしまうものだよ。それも、わりと簡単にね。」


そう言って、彼は小さく笑った。





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その日、僕は縁側での読書を中断してみかん畑の中を散歩していた。散歩にはうってつけの小春日和だった。やわらかな陽射しが、長い長い冬の間にすっかり凍えてしまった、地上のすべてのものを暖め、溶かしていた。


みかんの木は、ほぼ等間隔に行儀よく植えられており、どれも同じくらいに成長していた。こういうのはきっと、みかん畑にとっては良い兆候なんだと思う。
どの木も白い小さな花をたくさん咲かせて、あたりは甘ったるいような、青臭いような匂いに満ちていた。それは生命の生々しさを感じさせる匂いだった。
黒々とした柔らかい土の下で、その根はあたたかな水を吸い上げ、太陽に向かっていっぱいに広げられた若葉は、透明な酸素を吐き出し、黒い滑らかな樹皮の下で、生命は脈打ち、途切れることなく、確実に命を繋いでいく。


これは、僕にとってちょっとした発見だった。こんな、当たり前のことをさえ、僕は忘れかけていた。そして、それが僕の日常だった。


好むと好まざるとに関わらず。


ささやかな物思いに耽っている僕のすぐ近くで、みかんの木ががさりと揺れた。振り向くと、そこにはひょろりと背の高い男が立っていた。
男は色の薄いサングラスを西洋人のような鼻にちょこんとのせ、洗いざらしの白っぽいチノパンに、洗いざらしのダンガリーシャツ、足元は相当履きこんでいるニューバランスのスニーカーといういでたちで、肩にはコットンのショッピングバッグを掛けていた。
何もかもが、彼の一部として彼にしっくりと馴染んでいて、そのへたり具合が、なんとなく好ましかった。


「やあ。」

「はあ。」


僕達は、あまり要領を得ない挨拶を交わした。みかん畑の真ん中で、初対面の人にする最も好ましい挨拶というものが一体どんなものなのか、残念ながら僕は今でも知らない。


「・・・・・どこから来たんだい?」

「東京から・・・・・そこの屋敷に居候してるんです。」

「ふうん。」


それだけ話してしまうと、僕達の間にこれといって話題らしいものはなくなった。この空白を体裁良く埋めるだけの話術など、僕にあろうはずもなかった。それはどうやら男にしたところで同じらしかった。
男は黙ったまま、肩に掛けた大きなショッピングバッグをどさりと地面に置くと、シャツの胸ポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、銀色のジッポで火を付けた。僕は、紫色の煙の行方をぼんやりと目で追っていた。見知らぬ男と向かい合ってみかん畑の真ん中に突っ立っている理由など何もなかったが、かといって、立ち去るだけの理由も見当たらなかった。


「暇かい?」
居心地の悪い沈黙が破られる。

「ええ、まあ、かなり。」
居候というものは概ね暇なものだと、相場が決まっているのだ。

「昼飯、つきあわないか?」

「はい?」


男は、吸いかけの煙草を唇の端にくわえたまま、チノパンのポケットに両手を突っ込んで、歩き出した。


「街まで、買出しに行ってきたところさ。何か美味いものを作ろう。」

「ええ・・・・・あの・・・・・。」

「・・・・・あっ、それ、運んでくれよ。昔から言うだろ。働かざる者って、な。」


男は、僕と、置き去りにされた哀れなショッピングバッグことなど一向に気に掛ける様子もなく、さっさと歩いて行ってしまった。その後ろ姿はみかんの木の間に見え隠れしながらどんどん遠ざかり、そのとき僕は初めて、自分に選択の余地はない事に気付いた。
想像以上にずっしりと重いショッピングバッグを肩に掛けると、僕はよろけながら、急いで男の後を追った。