短編作品 『アネモネ』 〜前編〜
僕の彼女は あの日からずっと 眠りつづけている
僕の彼女は あの日から一度も 目を覚まさない
昨日も眠っていた 今日も眠っている 明日もきっと眠っているだろう
それが 純粋に眠りと呼び得るものかどうか 僕にはわからない こんなにも長く こんなにも深く そして こんなにも閉ざされた眠りというものを 僕はほかに知らない
しかし これを眠りと呼ばないのなら 一体なんと呼ぶべきなのか 失神か? 昏睡か? 仮死か? あるいはもっと別の あるいは何かそれらしい名前が あるのかもしれない ないのかもしれない ・・・・わからない
穏やかな秋の午後 南向きの部屋の 南向きの窓からは 四角く くっきりと切り取られた空が見える それは どこまでも高く どこまでも蒼く そのあまりの高さが 蒼さが 僕の遠近感を奪っていく
刷毛でこすりつけたような 一筋の雲が わからないほどゆっくりと それはまるで融かされていくように 次第にその姿をかえながら 何処かへ流れていく
曇りひとつないガラス越しに 晩秋のやわらかな陽射しがさしこむ それは 眠りつづける彼女の 無表情な横顔に 仄かな陰影を落としている
ここは ありふれた病院の 最上階にある一室 明るく清潔な そして静謐が支配する空間
しみひとつない床 しみひとつない壁 その眩しいほどの白さが 不意に僕の眼を射る じっと見つめていると その硬質な表面が 大きく波打つような錯覚に囚われる
それは その無機質な白さゆえに 本来 彼らが持つべき その本質を越えて この小さな空間を 外界から 不必要なほどの完全さをもって 隔て 仕切り 切り離している
そして その閉塞性のなかで 彼女はひとり 昏々と眠りつづけている
閉ざされた空間 閉ざされた眠り
緑色の光の残像が 瞼の裏で瞬く
ベッドサイドの小さなテーブルの上には 小さなガラスの花瓶がひとつ
ガラスの花瓶は プリズムのように 窓から射しこむ光を スペクトルにわけて 美しい原色の模様を テーブルの上に刻んでいる
ガラスの花瓶には アネモネの花が一束
先週の火曜日 僕が持ってきたアネモネ 萎れかかったアネモネ 一週間が過ぎ 今日はまた火曜日
この一週間も その前の一週間と同じように そしてこれからの一週間も たぶんまた同じように 何ひとつ変わることなく ただとても正確に 時間だけが過ぎていく
それはまるで 自分の取り分を きっちりと取り立てていくように
窓際に置かれたベッドの上に 彼女は横たわっている 身じろぎひとつすることなく 小さな咳ひとつすることなく ただ静かに 彼女は横たわっている
僕は 窓際に置かれた 三本脚の不安定な丸椅子に 浅く腰掛けて 彼女の顔を覗き込む
薄い瞼は やわらかく閉じられたまま 彼女の意識を深く闇に閉ざしている その二つの瞳が 再び光を映す時が来るのかと ただぼんやりと見つめる僕の前で しかしほんの睫一本さえ 微動だにしない
無表情な口元は いかなる感情からも切り離されたまま 静寂を破ることなく小さく結ばれている 今にもその唇が かすれたささやきを洩らしはしまいかと ただぼんやりと見つめる僕の前で しかしその唇は 溜息のひとつも洩らしはしない
死んでいる・・・・ようにも見える 死んでいる・・・・ようにしか見えない
「辛うじて一命は取り止めました。ただ、意識が戻るかどうかはわかりません。明日戻るかもしれないし、永久に戻らないかもしれません。 あとは彼女の生きようとする意志、生命力にかける他はありません。私達も最善をつくします。」
手術室から出てきた若いドクターの言葉が 何度も何度も 僕の脳裏を過る それはまるで 暗い静寂のなかで響く 低いこだまのように
彼の言葉には いかなる感情も含まれてはいない ただ 伝えるべきことを ただ 伝えただけ 彼は僕の目の前にいながら しかしその声は 何処か遠くで交わされる 聴きなれない異国の言葉のように 妙な違和感を残して ただ僕の中を滑りおちる
何かが歪み 何かが捻れていく きりきりと 音をたてながら
僕はただ その言いようのない 奇妙な感覚が去るのを ただひたすら 待ちつづける 深い深い海底へむけて ゆらゆらと沈んでいく体が 再び海面に向けて ゆっくりと 浮上を始める その瞬間を 待ちつづけるように
息もできず 瞬きもできず
彼の手術着には どす黒い赤色をした血痕が 不吉な輪郭を描いて滲んでいる まるでそれは 何かしら悪い知らせの 証拠であるかのように
僕は思う 自ら命を絶とうとする者の生命力に いったいどれだけの望みを掛けようというのか?
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僕が彼女と出会ったのは、僕達が高校二年生の秋の終わりだった。
僕は、たいして良くも悪くもない公立高校の学生だった。成績はちょうど真ん中くらい、スポーツをさせても特に目立ったところはなく、飛び抜けて容姿端麗ということもなく、何をやっても真ん中へんに納まってしまう、そういうタイプの青年だった。 それに引き換え彼女は、お嬢様学校として有名な私立高校に通う女子高生だった。いわゆる優等生で、勉強もスポーツもよくできた。すらりと背が高く、色白の美人で、一見、冷ややかさを湛えたような切れ長の瞳が印象的だった。しかし、性格は穏やかで優しく、品の良い物腰は育ちの良さを窺がわせていた。
僕の友達の彼女のクラスメートとして、彼女は僕に紹介された。 初めて彼女に会ったときのことを、僕はあまり良く憶えていない。なぜならそれはたぶん、僕にとって彼女は、僕の友達の彼女のクラスメートであり、彼女にとって僕は、彼女の友達の彼氏のクラスメートであり、その関係が、それ以上の関係に変わることなど、ありはしないと、つまり僕達が一対一の個人として関わり合うことになろうなどとは、ゆめゆめ思っていなかったからに違いない。そして、誰もが彼女のような女の子が僕のような男を・・・・つまり、こんな冴えない、こんな取り柄のない男を相手にするとは思っていなかった。僕自身でさえ。
にもかかわらず、僕達の交際は、ただそれを面白半分に傍観する友人達に後押しされるかたちで、状況に押し流されるようにして、始まった。 僕の意思とはほとんど無関係に。そしてたぶん、彼女の意思とも、ほとんど無関係に。
僕達は日曜日になると連れ立って映画館に出掛けた。そして、週末の二時間ばかりを、僕達は暗闇の中で銀幕を眺めて過ごした。僕は、それまで特に映画好きということもなかった。少なくとも、週末毎に映画館へ足を運ぶようなタイプの人間ではなかった。かといって、彼女の方が映画狂というわけでもなかった。ある時、偶然友人からチケットを二枚もらったことがきっかけで、なんとなく映画館へ行くようになっただけのことだ。 しかし、それはいつしか習慣のようになり、そうなってしまうと今度はそれを打破することが難しくなった。彼女は、他に何処かへ行きたいとも、何かをしたいとも言わなかった。週末ごとの映画館通いに何かしら不服そうな様子が見られるということもなかった。僕の横の暗闇の中で、決して誉められたものではない薄汚れたシートに腰掛けて、ただ黙ったまま、銀幕に映し出される世界を眺めていた。
彼女と二人で映画館へ通いつめたことで、僕が無類の映画好きになったかといえば、必ずしもそういうわけでもない。確かに、銀幕と対峙している二時間ばかりの間、僕は、そしておそらくは彼女も、現実からは程遠い、異次元ともいえる世界を楽しむことができた。しかし、その体験が、そしてその積み重ねが、それ以上の意味を持って僕の中に蓄積されていくということはなかった。映画は映画であり、場内に再び灯りが燈れば、儚くも消えていく幻想に過ぎなかった。
にもかかわらず、僕達は映画館へと通った。 結局のところ、それはただ僕が、僕達の時間を、僕達二人だけの時間を、どうやって過ごしたらいいのか、他に方法を知らなかったというだけのことだ。女の子と、ろくに付き合ったことなどなかったせいかもしれない。
映画館を出ると、僕達はぶらぶらと街を歩いた。行き先もないまま、ただ歩き回った。歩くこと自体に、何かしら特別の意味があるかのように。 暑い日には、街路樹がつくるその小さな木陰から木陰へと、渡るようにして歩いた。寒い日には、彼女は僕のコートのポケットにその小さな手を忍び込ませてきたりした。
僕達は歩きながら、いろんな話をした。彼女はいつも穏やかな口調で、楽しそうに話した。無闇に大声をだしたりすることも、わけのわからない流行り言葉を使うこともなかった。笑うと右の頬に小さなえくぼができた。あるいは、それと同じ小さなくぼみは左の頬にもできたのかもしれないが、思い出せない。僕が、いつも彼女の右側ばかり歩いていたせいだろう。
期末試験のこと、母親と喧嘩したこと、友達の恋人のこと、失くした傘のこと・・・・大体において、彼女がしゃべり、僕が聞いた。それはいつの間にか、二人の間で、ごく自然に割り振られた分担だった。しかし、そこで話されたことはどれもが断片的で、そこでの会話によって、僕達の間に何かが生まれたり、何かが損なわれたりするという種類のものではなかった。あるいは、彼女は意図的にそういった話題を避けていたのかもしれない。わからない。しかし、だとしたら、何のために?今となっては、わからないけれど。
賑やかな繁華街ではショーウィンドウを眺め、さびれた裏通りでは野良猫をかまった。喉が乾くと公園のベンチに並んで腰掛け、自動販売機で買ってきたジュースを飲み、お腹が空くとファーストフードショップでジャンクフードを食べた。
そして、陽が傾き始めると僕は彼女を家まで送っていき、僕達はそこでさよならをした。僕達はただ手を振って別れた。
そんなふうにして、僕達の交際は淡々とつづき、何事もなく一年が過ぎた。それはある意味において、友人達の期待を裏切るかたちで・・・・。 そして僕達は二度目の冬を迎えようとしていた。
しかし。
しかし、僕達が再び、冬の街に肩を並べて歩くことはなかった。あまりにもあっけなく、そして思いもよらないかたちで、僕達の交際は終幕を迎えた。 その冬、コートのポケットには、ただ、僕のがさがさした手だけが突っ込まれ、僕はもう映画館に行かなくなった。
今となってみれば、僕達に残されたもの、少なくとも僕に残されたものはといえば、底が磨り減り、紐がほつれ、埃にまみれた、何足かの履きつぶされた靴だけである。
今となってみれば・・・・。
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窓辺に立って 中庭を眺める
入院患者や 外来患者や ドクターや ナースや 松葉杖の若者や 車椅子の老人や あるいはもっと別の いろんな種類の人間が ゆるやかな陽射しを浴びて 午後のひとときを過ごしている
プラタナスの樹が立っている プラタナスの樹は そのごつごつとした 幹に 枝に 鮮やかに色づいた葉を纏い それは 時折吹き抜けていく晩秋の風に さらわれて さらわれて かさかさと 小さな音を立てながら 中庭に撒き散らされていく
あぁ そうだ 花をかえようか
ガラスの花瓶に挿されたアネモネは 今や ぐんなりとその花冠を垂れて ちからなく俯いている 葉はちりちりに乾き 反り返り 丸まったまま 青黒い茎にへばりついている
ぐったりとしたその姿に反して ただ花弁だけは まるでそれだけが 別の生命を与えられたかのように その鮮やかな色が失われることのないまま 滴るような真紅の色を 燃やしつづけている
しかしそれでさえ ほんの指先で触れただけで ばらばらと散ってしまう なんの躊躇いもなく それは いともたやすく あまりにも儚く
何かしら良くない出来事の まるで前兆のように
萎れかけのアネモネを 僕は全部いっぺんに 造作もなく花瓶からひきぬき そこに新しいアネモネを挿す
彼女はアネモネの花が好きだった
嘘。
彼女がどんな花を好きだったか 僕は知らない 彼女はどんな色が好きだったか 彼女はどんな季節が好きだったか 彼女はどんな歌が好きだったか
偶然と言ってやり過ごしてしまうには 少し多過ぎるくらいに 気が付けば 僕には彼女についての知らないことが あまりにもたくさんありすぎる あんなに いろんな話をしたはずだったのに あんなに いろんな話を聞いたはずなのに
いろんな? なにを? どんなふうに? どうして?
何もかもが 今となっては どうしようもないけれど
僕は窓を開けて そこから 僕の掌でぐったりとしているアネモネを 無造作に 投げ捨てる
哀れなアネモネは くるくると くるくると 真紅の 不規則な円を描いて はらはらと はらはらと 真紅の 花弁を散らしながら 遥か地上に向けて
堕ちていく
堕ちていく
堕ちていく
ほんの一瞬 目眩のようなものが 僕を捉える
目を閉じる
真紅の花弁が 暗闇を どこまでも 堕ちていく
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