短編作品 『アネモネ』 〜中編〜





ある寒い、冬の朝だった。
彼女は、街外れにある人気の無い廃ビルの屋上から、飛び降りた。


お正月を数日後に控えた慌ただしい師走の朝、僕は自宅の狭い庭で犬小屋の修理をしていた。数日前の大風で、屋根の板が剥がされてしまった犬小屋を相手に、僕は不器用な手つきで金鎚を振るい、鋸をひいている真っ最中だった。
足元には犬がじゃれつき、慣れない作業は思うように捗らなかった。つめたい空っ風が吹き抜けていく庭で、僕だけが額にじんわりと汗を浮かべて、悪戦苦闘していた。


その悪いニュースは彼女の母親によって、僕の元へ届けられた。彼女の母親とは以前に何度か会ったことがあった。といっても、本当に、顔を合わせたことがあるという程度のことで、通り一遍の挨拶をしただけにすぎない。
彼女の母親は、ほっそりとした面長の女性で、色が白く、彼女は母親によく似ていた。そして、僕と話している間、それはほんの短い時間だったけれど、その間に何度も、神経質そうに目を瞬かせた。
彼女の父親は仕事のために、海外へ単身赴任中だということだった。母娘、たった二人で広い屋敷に住んでいたため、女所帯の心細さが、彼女の母親をなおさら神経質にさせているのかもしれなかった。


電話が鳴った。


良くない電話だと、僕は直感的に思った。なぜかはわからないけれど、そう思った。それは、確信に近いものだった。“虫の知らせ” というものが本当にあるのだとすれば、それはそういった種類の勘だったのかもしれない。


しかし、だからといって、黙殺してしまうわけにはいかなかった。
僕は、電話のベルが鳴り止んでくれればいいと、どうか鳴り止んでくれと、心の中で願いながら、服についた木屑を庭先で丁寧に叩き落とし、縁側でぐずぐずと靴を脱ぎ、かじかんだ両手から軍手をゆっくりとはずして、丁寧にそれを丸めた。不必要なほどに充分な時間をかけて、僕はそれらの動作をゆっくりとおこなったが、それでも電話が鳴り止む気配はなかった。
何度目かのベルの後、僕は仕方なく、気の進まないまま受話器を上げた。


良くない予感は、見事に的中した。


受話器の向こうから、狼狽した女性の、かすれて、うわずった声が、僕に必死で何かを伝えていた。その狼狽ぶりは、尋常ではなかった。僕が、声の主が誰であるかを理解するまでに数分の時間が掛かった。そして、話の内容を理解するにはさらに長い時間が掛かった。
彼女の話すことは順序が入れ替わり、主語がすりかわり、同じ場所を行きつ戻りつするばかりで一向に先に進まなかったが、それでも、どうにか彼女の言っていることの意味を理解するにつれ、僕は自分の顔面から血の気が失せていくのを感じた。受話器を掴んでいるその指先は、爪の色が白くなるほど力が入り、それは次第に感覚を失い、冷たくなっていった。さっきとは打って変わった気持ちの悪い汗が、僕のシャツの背中をじっとりと濡らした。





手術は八時間にも及んだ。
救急車でこの病院に担ぎ込まれた彼女は、すぐさま手術室へと運ばれた。彼女意志とは、おそらく無関係に。
彼女の母親はひどく取り乱し、その度合いは、ほとんど錯乱と言っても過言ではなかった。わけのわからないことを大声で叫んだり、突然廊下に泣き崩れたり、虚空の一点をじっと見つめたまま動かなくなったりした。
そして、挙句の果てに、鎮静剤を打たれ、数人の看護婦に付き添われて何処かへ連れていかれた。おそらくは、何処かの病室の、何処かのベッドの上で、半ば強制的な睡眠の中へと追いやられていたはずだった。


僕は、夕闇に包まれようとしている薄暗い廊下で、「手術中」の赤いランプが消えるのを待ちつづけていた。時折、看護婦やドクターが慌ただしく、スウィング式のドアを抜けて手術室に駆け込んで行ったり、あるいはそこから足早に出て来たりしていたが、手術の終わりはなかなか告げられず、そのドアの向こうの密室で何が行われているのかさえ、僕に窺い知る由はなかった。


いよいよ夕闇が迫り、辺りが暗く闇に閉ざされる頃になると、不意に、蛍光灯が短い瞬きとともに、殺風景な廊下を白々と照らした。そして、それとほぼ同時に、「手術中」の赤いランプは消え、その顔に、憔悴と疲労とを色濃く滲ませた若いドクターが、僕に向かってゆっくりと歩いてきた。彼が、あまり良い知らせを持ってこないであろうことは、その表情を見れば、一目瞭然だった。


僕は来るべき宣告を迎え撃つために、体を硬くした。





ドクターのスリッパはぺたぺたと、何か水辺のぬるぬるとした小動物が石の上を這うような、そんな足音をさせながら、無機質な長い廊下を遠ざかっていった。
僕はひとり、今しがた彼が僕に言った、その言葉の一つ一つを反芻していた。
しかし、すべては僕の思考の中で、からからと虚ろな音を立てながら空回りするばかりで、そこからは、何も紡ぎ出されてはこなかった。そこには苦痛も、絶望も、悲しみも、なかった。
ただ、何とも言いようのない居心地の悪さの中で、得体の知れない重さがのしかかってくるような圧迫感に胸を塞がれた。


窓ガラスに、僕の顔が映っていた。
ひどく疲れているように見えたが、それは、今日一日の疲れ以上のものではなかった。ガラスの中の僕は、取り乱すでも、落胆するでも、悲しみに打ちひしがれるでもなく、僕が置かれた状況からすれば、それは少し物足りないくらいに、いつも通りの僕だった。
あまりついていなかった一日の終わり、夕闇の迫るなかをガタゴトと走っていく電車に揺られながら、ふと、窓に映る自分の顔に出くわす、そんな時の僕の顔と、それはたいして違わなかった。


窓ガラスの外に目をやると、紫色の空に、引掻き傷のような銀色の月が今にも掻き消えそうになりながら貼り付いていた。





+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +





僕の掌から滑り落ちた
アネモネは
真紅の花弁を
舞い散らせながら
僕の茫漠とした視界の中を
落下していく


ゆっくりと   ゆっくりと


まるでスローモーションのように


ゆっくりと   ゆっくりと


まるで悪い夢の続きのように


ゆっくりと   ゆっくりと


そしてそれは
冷たいアスファルトの上に
ぱさりとおちる


あぁ ごめんよ
痛かったかい


遥か地上へ向けて
堕ちていきながら
ばらばらに砕け散った
哀れなアネモネの
僕はその亡骸に
冷ややかな一瞥をくれると
窓を閉める





あの日以来
僕は
この病室の窓際で
この三本脚の丸椅子に腰掛けて
物言わぬ彼女の横顔を
ただぼんやりと眺めながら
幾度も幾度も
何度も何度も
その瞬間の彼女のことを考える


その瞬間の彼女
つまりそれは
最期の瞬間
彼女が
彼女の手の中に握られていたすべてのものと
彼女が手の中でもてあましていたかもしれない何かを
放棄した瞬間


僕はその光景を
何度も何度も
思い浮かべ
頭の中に描き
その限りない反復の中で
いつしかそれは
非常な精密さと精巧さを持つに至り
鮮やかに彩色された
ひとつのヴィジョンとして
僕の中に焼き付いてしまった


そのあまりのリアリティーのために
僕は
それがあたかも
僕と彼女が
共有している記憶であるかのような
錯覚さえおぼえる


もはや僕の空想は
現実との境界線をかろやかに飛び越している





よく晴れ渡った
寒い冬の朝
まだ朝日の届かない日陰では
透明な霜柱が
その脆く儚い
針のような切先を
精一杯に空へと向けている


人気のない廃ビルの屋上
そこにはひとり
凛とした表情で佇む
彼女がいる


スカートの裾を翻し
ようやく肩まで届いた髪をからませながら
かわいた風が
通り過ぎていく


そして


彼女の無表情な二つの瞳が
遥か地上をちらりと覗きこむ瞬間


彼女の細い指が
錆付いた手すりを放した瞬間


彼女のつま先が
冷たいコンクリートから離れた瞬間


ひらり
ふわり


何の躊躇いもなく 彼女の体は宙に舞い踊る


彼女の蒼褪めた唇が
ひとすじのかすれた叫びを洩らす瞬間


彼女の白い指先が
無意識に宙を掻く瞬間


しかしそれは
あちら側とこちら側をわけるように
虚しく空を切る


あちら側とこちら側


そして
冷たいアスファルトに
叩き付けられる瞬間


鈍くひび割れた衝突音
飛び散る血飛沫
そして
音もなく忍び寄る不吉な影のように
アスファルトをどす黒く染めながら
じわじわと広がっていく血


その瞳は
半ば閉ざされ 半ば開かれたまま
もはや
何を見るでもなく
何を捜すでもなく
時折
黒目を痙攣させるように
ことことと震わせながら
焦点の合わない不気味な視線を
宙に漂わせている


永遠とも呼べるほどに
長い一瞬


刹那とも呼べるほどに
短い永劫


ただ
緩やかな弧を描いて堕ちていく
彼女の心の中だけが
僕には見えない


彼女の心の中だけが
僕には届かない





+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +





その事件は、彼女の周りのすべての人間にとって、あまりに突然の出来事であった。誰もがその思いもよらないニュースに驚きを隠し得ず、誰もがその事実を簡単に信じることはできず、誰もがひどく混乱し、我が目と我が耳とを疑った。


思いつきというにはあまりにも大胆であり、あさはかであり、何よりもそれは、思慮深く、慎ましやかな彼女らしからぬことのように思えた。そうかといって、彼女をそこまで追い詰めた、理由らしい理由も見当たらなかった。当然のことのように、遺書もなかった。


すべては彼女の一存において、彼女ひとりの思索と、決断と、実行によって、行われたことだった。誰かに、何かを告げることもなく、そして、何の前触れもなく・・・・。


なぜ? どうして? 
いろんな人が、驚いたり、悲しんだりした。涙を流したり、嘆いたりした。ありもしない話を囁きあっては眉をひそめたりもした。まことしやかな作り話が一人歩きをしたりもした。あれは事故だったのではないかという人もいた。彼女は、何かの事件に巻き込まれたのではないかという人もいた。殺されかけたのではないかという人もいた。僕のせいだという人もいた。あるいは、そうかもしれない。
いろんな人が、いろんな事を言った。あらゆる種類の憶測が飛び交った。しかし、すべては憶測に過ぎなかった。結局のところ、その事について真実は愚か、手がかりのようなものさえ、知り得る人はただのひとりとしていなかった。僕も含めて。


その渦中にあって、ただ僕だけが何も言わず、ただ僕だけが沈黙の中にいた。ただ僕だけが変わることなく、毎日を、それまでと同じように過ごした。
僕の生活の中で変化があったとすれば、それは映画館へ行かなくなったというくらいのことだ。


僕に対して、周りの人間は概ね同情的だった。恋人の自殺未遂。それは、多感な思春期を過ごす僕達にとって、最悪にして最高の悲劇といえないこともなかったのかもしれない。
故にそれは、少しばかり多過ぎるくらいの同情といってもいい程度のものだった。


しかし僕自身は、周りの人間が思うほど、自分の置かれた状況に陶酔していたわけではなかった。僕の沈黙は、茫然自失という状態に起因するものではなかった。僕は、周りの人間が思う以上に冷静だった。事実をきちんと受け止めてもいたし、意識はくっきりと醒めていた。
僕の沈黙の理由はといえば、それはただ、僕が言うべき言葉と、それを紡ぎ出すべき感情を、少なくとも周りの人間が期待するほどには、持ち合わせていなかったというだけのことだ。
僕は黙ったまま、ただ曖昧に微笑んで見せてそれをやり過ごした。そうするより他に、よい方法が思いつかなかった。


僕の受けた衝撃が、他の人達のそれよりも、遥かに強いということはなかった。
僕の背負った悲しみが、他の人達のそれよりも、遥かに深いということはなかった。
僕の負った傷が、他の人達のそれよりも、遥かに尊いということはなかった。
僕の失ったものが、他の人達のそれよりも、遥かに大きいということはなかった。


結局のところ、彼女のしたことによって僕に降りかかったすべてことは、彼女のしたことによって僕以外の人達に降りかかったすべてのことと、あらゆる点において大差はなかった。ただひとつ違うところがあるとすれば、それは、少々重荷ともいえるほどの同情が僕に対して寄せられたことであり、そしてそのことが、少なからず、僕に良心の呵責という甘酸っぱい汁を嘗めさせたことくらいなものだった。


こうして僕は、あるひとつの残酷な結末に到達する。


つまり
僕は
彼女を
かつて
これまで
ほんのかけらも
これっぽっちも



想ってなどいなかったということだ



彼女のしたことによって、あるいはそれが、僕にさえ何も告げられることなく、彼女の一存において、闇から闇へと葬り去るようにして行われたことによって、愛情が失せていったわけではない。彼女の存在が、既に僕から遠く離れていってしまったことによって、想いが色褪せていったわけではない。





そこには最初から、何も、なかったのだ。何も。





欺こうなどと、裏切ろうなどと、嘘を吐こうなどと、思ったことはただの一度としてなかったけれど、それはもはや、動かしようのない事実だった。そして、そこに何らかの不幸があるとすれば、それは、僕がその事実に気づいてしまったということに他ならない。





あるひとつの極限状況の中で。