短編作品 『 グリコとノジマ 』 〜前編〜





ワタルは今日もキャンバスに向かって、黙々と絵筆を振るっている。


アトリエにしている古いアパートの一室。
西向きの小さな窓から、今日も機嫌の悪そうな灰色の空が覗いている。
部屋の真ん中には脚のがたつくテーブルと、座り心地の悪い3本脚の椅子。
壁際には、スプリングが壊れたベッド兼用のソファ。


冷めてしまったコーヒー
種々雑多な画材
吸殻が溢れた灰皿
空っぽのシリアルの箱


灰色の壁

灰色の天井

灰色の空


そして、小さな灯りの下で、ワタルは来る日も来る日も、黙々とキャンバスに向かう。




ふと、絵筆を持つ手を止めて、ワタルは物思いに沈む。


”・・・・描けない。”

”そんなことはない。描けてる。なかなかのものだ。悪くない。”

”いや、だめだ。何かが足りない。”

”何かが。”

”何が?”


終わりのない自問自答を、少なくとも今日だけで、一体何度繰り返したことだろう。
そして、その問いかけは、なんの答えも見出せぬまま、意味のない焦燥感に煽られて、ワタルはまた描き続ける。




最後に眠ったのは、いつだっただろう?
最後に食事をしたのは、いつだっただろう?
最後に誰かと話したのは、いつだっただろう?


ワタルは完全に追い詰められていた。
心も体も疲れ切っていたが、意識だけが妙にくっきりと醒めている。
擦り切れた神経が、頭の奥できしきしと嫌な音を立てている。




ソファに倒れこもうとするよろけた足取りが、床に置かれた何かを蹴飛ばした。
がらんがらんと、派手な音が狭いアトリエに響く。

”なんだ?”

鳥篭だった。
緑色の錆が浮いた、古めかしい鳥篭。唐草模様の複雑な細工が施されている。
そして、横倒しになった篭の中で、見たこともない鳥が一羽、ばたばたとコバルト色の羽を散らしている。




[ その鳥は、ノジマ。]




顔を上げると、すぐ目の前に少女が立っていた。
年齢は、5歳くらいだろうか。緑色のワンピースを着ていて、黒い髪は肩の上あたりで切り揃えられている。そして、鳥篭を元に戻すと、中を覗きこんでいる。


[ きみは、だれ?]

[ グリコ。]

[ グリコ?]

[ そう。グリコ。]




どこからきたの?

[ ・・・・・。]




[ さっき、ノジマって言ったね。]

[ うん。]

[ それはつまり・・・鳥の名前?]

[ そう。ノジマ。]

[ 鳥篭は、きみのもの?]

[ うん。]




グリコと名乗る少女は、ちらりとあたりを見まわすと小さく息をついてから、ノジマの入った鳥篭を抱えて、ソファにちょこんと腰掛けた。




[ グリコ、おうちの人が心配するよ。]

[ いいの。大丈夫。]

[ でも。]

[ いいの。大丈夫。]




ノジマと呼ばれた鳥が、それとはわからないほどに低く、一声鳴き声を上げる。




ワタルは小さくため息をついて、3本脚の椅子に腰掛けた。そして、テーブルの上の灰皿を引き寄せ、煙草に手を伸ばそうとした、その瞬間、ワタルは唐突に意識を失い、そのまま床の上に崩れ落ちた。




西向きの小さな窓を、埃っぽい雨が、叩き始めている。