短編作品 『ノクターン』 〜第16楽章〜





「・・・・戻ってきたか。記憶まで消して連れ戻してやったのに。」


いつものように、ルイドは書斎にいた。
椅子に浅く座り、上体を背凭れに預け、投げ出された長い脚を机の上で組んでいる。


「僕はあなたの・・・・後継者だから。」

そう言ってソファに腰掛ると、僕は詰るような視線をルイドに投げかけた。

「あなたは僕に、向こうへ戻ることは出来ないと言った。あれは、嘘だったんだね?」

「人聞きが悪いな。」

「だって、僕は・・・・」

ささやかな反撃を試みようとする僕を遮って、彼は言った。

「おまえは結局、ここに戻ってきたではないか。向こうの生活には、戻れなかったのだろう?」

彼は、悪戯っぽく笑った。
そして、優雅なしぐさで机から足を下ろすと、彼は椅子から立ちあがり、窓辺に立った。窓ガラスに映る彼の横顔は、再び真顔に戻っている。そして、窓の外に視線を向けたまま、彼は言った。


「おまえが、戻ってこなければいいと、思っていた。」

「・・・・どうして、そんな。」

「しかし、戻ってきて欲しいと、望みもした。」

「・・・・」


――ここへ戻ってさえこなければ、おまえは元の生活に帰っていくだけだ。おまえは、何も失わない。孤独に怯えることもない。
そして何よりも・・・・何よりも私は、おまえをひとり、ここに残して逝くのが、辛かった。
だから私は、おまえをあちら側に連れ戻した。ここでの記憶を、すべて消し去って。


「ルイド・・・・」


―― しかし、おまえはここへ戻ってきた。


「・・・・それが、運命というものなのだな。」


彼の声は、真冬の湖のように、静かで、深く、澄み切っていた。そこには、もはや何の迷いも躊躇いもなく、僕はその声に、彼の、密やかな覚悟のようなものを感じた。そしてそれは、おそらく、僕が胸のうちにしっかりと抱きしめているものと、同じものだった。


不意に、彼が僕の左手を取り、そして、細い指先で小さな引き攣れに触れた。

「すまなかった・・・・」




シクラが、コーヒーと、バスケットに一杯のクッキーを運んできた。書斎の中は、淹れ立てのコーヒーと、甘ったるいバターの香りで溢れ返った。


「シクラ、随分たくさん作ったね。」

僕がそう言うと、シクラはこくんと頷き、にっこりと笑った。

「レイジが戻ってきて、よかった。こんなに、たくさん作ったから。」

ルイドはバスケットに手を伸ばし、ひとつ摘み上げて口に放り込んだ。

「うん、美味しいよ。今日は上手に焼けてる。」

「いつも上手よ。」

ルイドがからかうと、シクラは小さなほっぺをぷぅと膨らませた。


何の過不足もなかった。すべては然るべき状態で、然るべき場所に存在した。僕は、僕の居るべき場所に戻ってきたのだ。シクラがいる。そして、ルイドがいる。何ひとつ、損なわれることなく、時は穏やかに流れてゆく。これが、刹那の輝きであることを、僕はもう知っていたけれど、それでも僕は、ひととき、深い安堵と安らぎの中にいた。


―― たとえこれが、最後の輝きであるとしても。






「二日後の満月の晩、あなたを冥界に送ります。」






彼の穏やかな横顔が、暖炉の暖かな火に照らされていた。




その夜、僕は夢を見た。
僕は、まるで小さな子供のように、膝を抱えて、温かな水の中を漂っている。
薄暗い水底で、僕は温かな手に触れていた。
あの、囁くような調べは、何だろう。懐かしい声のように聞こえた。