短編作品 『ノクターン』 〜第15楽章〜





それから、数日が経った。
奇妙な違和感は、相変わらず僕の中に居座りつづけていたけれど、違和感などというものは、慣れてしまえば、違和感ではなくなるものだ。そう思うことに決めて、僕は毎日忙しく働いた。


一際忙しかった土曜日の夜、最後の客が帰った時には、もう夜明けの気配がすぐそこまで近付いていた。洗い場でグラスを洗いながら、ぼそりと呟く。


「あ〜〜・・・いったい、何時間働いただろ?」

「数えてみないほうがいいですよ。うんざりしちゃうから。」

そう言って、新入りのアルバイトが笑った。僕もつられて笑った。

「それじゃ、こっち終わったんで、上がらせてもらいます。お疲れさまです。」

「あ、あぁ、お疲れ。」


誰もいなくなったカウンターで、僕はビールを呷った。
長くて忙しい一日だった。そして、また新しい一日が、もうすぐそこまでやって来ているのだ。思わず、深い溜息が漏れる。火をつけた煙草が、指の間で忘れられたまま、灰になってカウンターに落ちた。


ドアのあく音。

「すみません、今夜はもう・・・・」

そう言いながら振り返ると、さっき出ていったアルバイトの彼が立っていた。

「あ、いや、傘、忘れちゃって・・・・なんだか、降り出しそうですよ。」

「あ、そう・・・・」


『 すみません、今夜はもう・・・・』


僕の中で、あの言いようのない違和感が、ざわざわと目醒め始めていた。耳の奥で、遠いこだまのように響く声が、僕の中の何かを揺すぶり始めている。


『 すみません、今夜はもう・・・・』

『 私と一緒に、来るかい?』


―― 私と一緒に、おいで。――


―― そんなこと、君だって気付いていただろう?――


―― 君が、私の、後継者だからだ。――


―― それが、恐ろしく孤独な時間だとしても?――


既視感のようなものが、瞼の裏を駆け抜けていく。猛烈なスピードで巻き取られていくフィルムの、その滲んだ残像を見逃すまいとするように、僕は思わず眉間に力を入れた。


霧の中に翻る、黒いコート。

射るように僕を見据える、灰色の瞳。

抱き上げた体の、不思議な軽さ。

振りほどいた、華奢な指先。


僕は、左手の甲に触れた。傷はすっかり治っていたが、小さな引き攣れが、ぼやけた記憶の残滓のようにそこにあった。




「・・・・ルイド。」




もつれ、絡まり、途切れていた僕の記憶は、再び時を刻み始めた。
彼の声が、頭の中で何度もこだまする。


―― 君が、私の、後継者だから ――


僕は、すっかり灰になってしまった煙草を灰皿に押し付けた。


そして、上着のポケットから携帯電話を取り出すと、彼女の番号をダイヤルしたが、呼び出し音が2度鳴ったところで、思い直して切ってしまった。僕が向こうへ戻れば、こちら側に僕という人間が存在した事実は、抹消されるのだ。僕という存在は、はじめからなかったことになる。彼女が目醒めるころには、着信履歴の中から、僕の名前はすっかり消えてなくなっているに違いない。


もはや、無意味な感傷は必要なかった。


僕は、携帯電話をカウンターに放り出して、店内をちらりと見回した。それから、静かにドアを開けると、祈るような思いで地階への階段を一気に駆け上がった。