短編作品 『ノクターン』 〜第14楽章〜





その朝、僕の眠りを破ったのは、軽薄な電子音だった。携帯電話が、枕元で騒いでいる。僕は、無意識に手を伸ばしていた。


「もしもし、レイジ?おはよう。」

時計に目をやる。10時を少し回ったところだ。

「あぁ・・・・」

「今日、仕事お休みでしょ?映画、観に行けるよね?」

「あ、あぁ・・・・」

「それじゃぁ、いつものところで、待ってるね。」

「うん・・・・」


そうか、映画か。約束していたんだっけ・・・・
覚醒には程遠い状態の頭を抱えたまま、ベッドから起き上がる。


カーテンを開けると、窓の外は良い天気だ。出かける前に洗濯でもしようか・・・・
僕はベランダに出ると、両手をぐっと伸ばして大きく伸びをした。そして、その時はじめて、僕は左手に巻かれている白い包帯に気づいた。不審に思いながら、きれいに巻かれた包帯をほどいてみると、誰かに強く掴まれたような、引掻き傷がある。


「あれ・・・・昨夜、何かあったかなぁ。」

思い出せなかった。なんだろう。


待ち合わせの場所に現れた彼女は、僕を見るなり言った。

「なんか少し・・・・変わったんじゃない?」

「・・・・そうかな。どんなところが?」

「そうね・・・どこがって、うまく言えないけど、なんとなく。」

「そうか?」


自分でもそんな気がする・・・・とは、言わずにいた。
確かに、昨日とは何かが、明らかに、違っているような気がする。しかし、何が違うのかが、わからない。頭の中で、何かしら別の生き物が、僕の意思とは無関係に脈打っているような気がする。


そして、左手の引掻き傷。きれいに巻かれた白い包帯。


なにか大切なことが、抜け落ちているような気がした。しかし、思い出せない。手を伸ばせば、触れられるような気がする。瞳を凝らせば、見えるような気がする。なのにそれは、追いかければ追いかけるほどに遠のいて、僕をひどく混乱させた。まるで、真昼の逃げ水のように。


何なんだ、この胸のつかえのようなものは。

この奇妙な違和感は、いったい何なんだ?


僕は、大切なものが、僕の指の間をすり抜けて落ちていくような感覚に苛まれていた。言いようのない焦燥と苛立ちを抱えたまま、映画館の暗闇のなかで銀幕を見つめている。
真冬の海岸で、のっぺりとした顔の役者が、キツネ目の女優に愛を囁いていた。