短編作品 『ノクターン』 〜第13楽章〜





その日も僕は、暖炉の前で本を読んでいた。ふと、本を閉じて顔を上げると、ルイドは窓際に凭れて、物憂げに煙草を燻らせている。窓の外に広がる、モノトーンの風景画のような景色の中を、灰色の雲が足早に流れていった。


「私は・・・・」

「ん?」

「いや、いいんだ。」

彼が言わんとしていることが、僕にはわかるような気がした。

「ルイド。気にしなくていい。選んだのは僕。ルイドが奪ったんじゃない。僕が捨てたんだ。何もかも、すべて。」


彼の視線が僕を捉えた。それは、あの日・・・・僕がはじめてこの屋敷へやって来たあの日、僕を見据えていたのと同じ、強く、鋭い、真っ直ぐな視線だった。


「・・・・ここから先にあるのが、気も遠くなるような長い時間だとしても?」

「うん。」

「そしてそれが、恐ろしく孤独な時間だとしても?」

「・・・・うん。」


孤独な時間、恐ろしく孤独な時間・・・・その言葉に、僕は胸を衝かれた。僕は、突き付けられる現実が怖くて、目を背けてきた疑問を、思わず口にした。


「ルイドは・・・・どうなるの?」

「?」

「つまり・・・・僕が、あなたの後継者になった後。」

「・・・・」


長く、重い沈黙があった。長い睫毛が、彼の憂いを湛えた目元に淡い影を落としている。吸いさしの煙草を暖炉に放り込んで、彼は答えた。


「私は、冥界に下る。」


私達は、自分が通るために、門を開けることはできない。だから、後継者の最初の仕事は、前任者を冥界に送り出すことだ。


「じゃぁ、僕が、僕があなたを?」


僕は、からだ中の血液が一気に逆流するのを感じた。
ルイドがいなくなる。この屋敷から。僕の目の前から。永久に。永遠に。
それも、僕が、僕がこの手で、彼を葬るのだ。彼のために、冥界への門を開けるのが、僕だなんて。この、僕だなんて。


一瞬、眩暈のようなものが、僕を捉えた。無意識に握り締めた両手が、小刻みに震えている。


「僕には、できない。」

「・・・・レイジ?」

「僕は、僕は、嫌だ。そんな・・・・」


居たたまれなくなって、僕は弾かれたようにソファから立ちあがった。
ルイドの華奢な指先が、僕の手を捉える。乱暴にその手を振りほどくと、彼の薄く尖った爪が、僕の左手を派手に引掻いた。僕は書斎を飛び出し、階段を駆け下りた。左手の疵は見る見る赤く滲んでいく。それを右手でしっかりと押さえると、後ろから追いかけてきたルイドの声を振り切るように、僕はエントランスを駆け抜け、そのまま屋敷を飛び出した。


時折、薄日が差すだけの曇り空だったが、僕はその眩しさに目を細めた。いつからか、おもてを歩くときには、陽射しを避けるコートとサングラスが必要になっていた。
森の入り口で、僕は立ち止まる。ここから先に入っていくことが許されるのは、死者の森の番人だけである。僕が足を踏み入れることはできない。


眩しさに目がくらむ。薄日とはいえ、陽射しを遮るものを持たない僕にとって、もはやそれは凶器だった。僕は、その場に倒れこんだまま、動けなくなった。


―― それが、恐ろしく孤独な時間だとしても? ――


薄れていく意識の片隅で、彼の言葉がこだましている。
いつか彼は、僕の前から姿を消すことになるのだろう・・・・そのことに、僕は薄々気づいていた。しかし、気づかないふりをしていたのだ。そうすることで、今の生活が永遠に守られるのだと、信じていた。いや、信じていたかった。
たとえ、すべてが錯覚であるとしても。


この世界にやって来て、僕は多くのものを失った。いや、僕はすべてを失った。人として生きてきた過去も、そして、まだ手付かずだった未来も、何もかも。


それでも僕は、ただの一度として、嘆き悲しむことも、取り乱すこともなかった。それらがすべて、彼によって差し出されたものであったからこそ、僕はそれを受けるべく、いつでも手を差し出してきたのだ。



しかし、彼のいなくなったこの世界で、孤独に耐えて生きていける自信は、なかった。



雲の切れ間から、陽射しが零れる。久し振りに見る太陽だった。
そして、僕の意識は緩やかに滑り落ちていった。