短編作品 『ノクターン』 〜第5楽章〜





そこは、書斎のようだった。


壁面は、窓を除くそのほとんどが書架になっており、床から天井までを、様々な本の背表紙が埋め尽くしていた。部屋の奥には、一畳くらいはあるかと思われるような、大きなマホガニーの机が置かれている。その上には、見るからに古そうな、分厚い書物が所狭しと積み上げられ、立てかけられ、並べられ、あるいは、広げられたままになっている。


部屋の中央には大きな暖炉があり、その中で、まるで生き物のようにちろちろと蠢いているオレンジ色の炎が、主と客人を迎えた。
暖炉の前には高い背凭れのついた黒革のソファが2脚と小さなテーブル。そして、天井から吊るされた古めかしいシャンデリアが、室内をうっすらと照らしている。


「ようこそ、我が邸宅へ。」


そう言った彼の声は、驚くほど細く、頼りなかった。
きょろきょろと、落ち着きなく部屋の中を見廻していた僕だったが、その声の様子に、思わず彼を振り返った。


透き通るような肌はさらに蒼褪めて、まるで白磁のようだ。美しい額に落ちる髪を、落ちるに任せたまま掻きあげることもせず、苦しげに寄せられた眉根には、疲労と憔悴が色濃く滲んでいる。


そして、再び何かを言いかけた彼の口元が、言葉の代わりに深い吐息を漏らしたかと思うと、彼は、僕の目の前で大理石の床に崩れ落ちた。


「あ、あぁ・・・・誰か、誰か!!」


廊下を足早に駆けてくる足音がして、先程の少女が書斎に飛び込んできた。


「まぁ、ルイド、しっかりして。あの・・・・彼を運ぶの、手伝ってもらえませんか?」

「え、えぇ、そうですね、いいですよ。」


・・・・とは言ったものの、たったひとりで、意識のない男を抱いて運べる自信と腕力など、僕にあろうはずもない。しかし、この期に及んで、尻込みするわけにもいかず、かといって、この少女が戦力になるとも、到底思えなかった。


意を決して、ぐったりとした彼を抱き起こす。しかし、満身の力を込めて抱き上げた彼の体は、信じられないほどにふうわりと軽く、少なからず僕を驚かせた。それは何かしら、密度の低さのようなものを思わせるような、そんな軽さだった。


彼を抱いたまま、先を行く少女に案内されて長い廊下を歩く。そして、寝室に入ると、彼を天蓋つきのベッドに横たえた。
タイを外し、シャツの襟元を緩めてやると、速く、浅い呼吸に、彼の薄い胸がせわしなく上下している。無防備にのけぞった白い首の、その薄い皮膚の下で、青い血管がとくとくと速い脈を刻んでいた。


「大丈夫、ですか?」

そう問うと、少女は慣れた様子で答えた。

「大丈夫。ちょっと消耗しただけです。よく眠れば、じきに良くなりますから。」


少女は、ベッドの端に腰掛けて彼の顔を覗き込んでいる。
僕は、所在無く立ち尽くしたまま、眠る彼の横顔を眺めていた。


不思議な男だ。


ほんの1時間、いや、数十分前まで、僕は確かに店のカウンターでビールを飲んでいたのだ。看板の灯りを消して、後片付けを済ませ、ほっと一息ついていたのだ。


そこへ、彼が現れた。
そして今、僕は、見知らぬ屋敷の一室で、昏々と眠る彼の姿を見つめている。


いったい、ここは何処なのだ?
僕はなぜ、こんなところにいるのだ?


明日は月曜日で、仕事が休みだ。久し振りに、彼女と映画を見に行く約束をしている。映画・・・・なんの映画だっただろう、彼女が観たがっていた、あれは、なんという映画だっただろうか?
彼女の姿が、ちらりと脳裏を横切ったけれど、特別な感慨は起こらなかった。しかし、少なくともそれは、僕のあるべき日常の象徴ではあった。


「お茶でも、いかがですか?」


少女の言葉に、僕は我に返った。気付けば、彼の様子もずいぶん落ち着いたようだ。彼の口元に、規則正しい、ゆっくりとした深い呼吸が、戻っていた。


「そうですね、頂きましょう。」


僕達は、深い眠りの淵に沈む彼を残して、寝室を後にした。