短編作品 『ノクターン』 〜第3楽章〜





僕は閉店後のカウンターで、一人ビールを呷っていた。


忙しい週末の夜は更けて、最後のお客が帰っていったのは、草木も眠る時間さえ、とっくに過ぎた頃だった。後片付けを終えて、僕はようやく一息ついている。
それでなくても薄暗い店内は、照明を落とすと真っ暗といってもよい。その暗がりの中で、僕は琥珀色の液体が入った、緑色の壜を傾けていた。


ドアの開く音。


「すみません、今夜はもう・・・・」


そう言いながら振り返ると、そこには彼が立っていた。
少しクセのある柔らかそうな髪を、煩わしそうに華奢な指先で掻き上げると、透けて見えるかと思うほどの蒼白い額が、頬が、こめかみが、露になった。


濃密な夜気が、彼を包んでいる。
彼の灰色のひとみが、僕の心を射抜くように妖しく揺れた。


「私と一緒に、来るかい?」
「え?」


「一緒に、おいで。」
「・・・・」


「おいで。」


そこには、なんの説明も、なんの説得もない。質問を投げかける隙間もなければ、答えを得られそうな期待もない。当然のことのように僕を誘う彼の声は、是非をも言わせぬ響きに満ちている。


「さぁ。行くよ。」


彼は、それだけ言うと、僕の返事を待つこともせず、踵を返すとそのまま店を出ていった。開けられたままのドアから、夜の気配が流れ込んでくる。


躊躇したのは、ほんの一瞬だった。
僕の本能が、二度と彼を見失ってはならないと告げていた。


僕は、ガラスの灰皿に押し付けて煙草をもみ消し、緑色の壜をカウンターに置くと、スツールから立ち上がり、彼の後を追って、半地下から地階への細い階段を駆け上がった。そして、その最後の一段を踏み上がったところでふと顔を上げた瞬間、僕は双眸を見開いて立ち尽くした。


「これは・・・・」


そこで僕が見たものは、深い霧に閉ざされた石畳の路地裏だった。


見たこともない風景。
見たこともない場所。


この街で、僕が見慣れていた筈のものは、何一つなかった。
寄り添い合う恋人達、夜空に滲むネオン、タクシー待ちの行列、酔っ払いの喧嘩、雑踏、そして喧騒・・・・。


まるでそんなもの、最初からなかったとでも言うように、そこにはただ霧に濡れた石畳が静かに続いているだけだ。だらだらと緩やかに上っていく坂道。道の脇では、ガス灯の揺れる灯りが濃い霧に反射して、あたりを蒼白くぼうっと照らしている。


”これは、夢だ。夢だ。”


僕は、思わず引き返そうと振り向いたが、そこには、今、僕が駆け上がってきたはずの階段すら、消えてなくなっていた。手摺りを掴んでいたはずの左手は、行き場をなくして、ただ堅く握り締められている。


乳白色の霧が、僕を包んでいた。
彼のシルエットが揺れている。


そのシルエットはちらりと僕を振り返ると、黒いコートの裾をひらりと翻して、石畳の上を歩き出した。


もはや、僕に選択の余地はないらしい。