1.鍼灸・按摩の歴史

東洋医学の按摩法は、皆様方も思い当たる事でしょうが、痛いところに思わず手を当てたり撫でたりする本能的な行為から始まりました。これが「手当」の語源です。さらに、病人を看護するに当たって、苦しむ病状に思わず背を撫でたり叩いたりして癒そうとする行為、あるいは疲れた時に思わず延びをしたり身体を動かして気分転換を図る事等は、按摩やマッサージでいう「按撫法(あんぶほう)」「揉捏法(じゅうねつほう)」「牽引法」「運動法」の原点であり、ここから按摩の治療行為が確立したものと思われます。
 また古代人の生活環境は、衣・食・住、総てが整っていませんので厳しい自然環境との戦いを強いられた事でしょう。そんな中で、幾つかの医療行為が発見されました。例えば虫や獣に犯されて化膿した患部から膿を排除する為の石メス(鍼の原形)。冷えて血行障害を起こした患部への施灸法。そして毒物を間違って摂取した時に、吐く・下す・発汗により排除する方法や、内臓から身体を整える治療法としての漢方薬が出来ました。

中国(春秋戦国時代〜秦〜漢の時代。紀元前770年から西暦220年頃)に複数の著者によって書かれたとされる漢法古典、「素問(そもん)」「異法方宜論(いほうほうぎろん)」には以下のような事が紹介されています。

中国における東洋医学は、東西南北と中央の五地区から、気候・風土にあった治療法が発展してまいりました。
 東の国は、海に近いので塩分の多い物を食するため熱気を生じ血の流れが盛んになり、鬱血(うっけつ)症が多くなるため、石メスを使い患部を切開して血・膿を出す治療法が発達しました。
 西の国は、高原地帯で気候が寒冷のため厚着をして家の中に篭ることが多いので、外からの邪気を受けることは少ないが精神的苦痛は大であり、臓器の疾患が多くなり漢方薬の治療法が発達しました。
 南の国は、湿気が多く太陽光線が強いため皮膚のきめが荒くなり外からの邪気を受けやすく、麻痺、痛みなどが出やすくなり、私たちが現在使用しております鍼治療法が発達しました。
 北の国は、日光の少ない寒冷地で遊牧民がテント生活をしているため体が常に冷やされるので、灸の温熱で暖める治療法が発達しました。
 中央の国は、気候・風土が穏やかで豊かな生活をしておりますが、あまり体を動かさずに食するため、血のめぐりが悪くなり慢性の病にかかりやすく、このような体質に対し按摩・指圧療法が発達しました。

この次期になって「東洋医学の基礎知識」でも紹介している基本的な理論体系が完成したものと思われます。

このような中国医学が朝鮮をへて公式に日本に伝来したのは西暦562年です。しかしこれが実際の臨床現場で応用されるように成ったのは奈良朝初期で、この時代の按摩師は、外科・整形外科およびその後療法としての処置や按魔法まで総合して取り扱った専門家で、今日の按摩師の医療的役割とは大いに異なります。ここから約1世紀に渡る東洋医学の臨床に関する文献は不明な点が多いので省略しますが、江戸時代に入り中国伝来の東洋医術は成熟期を迎えました。特に盲人の活躍は目覚ましく、将軍家に出入りを許された盲人鍼医師も存在しました。按摩法でも、文政年間に大阪の太田晋斎(おおたしんさい)が「按腹図解(あんぷくずかい)」を著して「元気の溜滞を活発にし、臓腑を和らげ、気力を盛んにする」按摩の効果を詳しく述べています。当院でもこのような文献を整理して、内科疾患に対する予防と治療を目的の按摩術の研究を進めたいと考えております。
 その後の按摩術は明治維新とともに漢方医学の一科として別道を歩み、民間療法として余命を保つ運命におかれ、伝統的な東洋医学の診療体系に裏づけられた古来の按摩術は、西洋医学の学説、循環障害の回復説に置き換えられ、ヨーロッパ流のマッサージと総合されて今日に至っております。
 鍼灸術も明治維新と共に導入された西洋医学の中で、神経や筋肉に対する刺激効果、血液・リンパ液・内分泌の変化を研究した論文が増え、臨床研究もその方向で進められました。1940年頃になって「古典に帰れ」との呼びかけで東洋医学を見直す気運が高まり、西洋医学の立場で診療するグループと伝統医学の立場で診療するグループとが競い合い、あるいは同調し合って今日に至っております。

参考文献
芹澤勝助 著 「マッサージ・指圧法の実際」
和久田哲二 著 「手技療法『日本按摩療法』」


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